思いがけない昔話(ブログ その179)
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作成日 2022年9月20日(火曜)15:21
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作者: 坂東昌子
この9月から始まる「湯川博士の贈り物 3」の案内が、原子核グループのメーリングリストに出ました。萩野さんのメールが17日の夜遅く出たのに永宮先生からメールが来ました。メールってすぐ反応できるので便利ですね。
お久しぶりです。益々ご活躍のこと、嬉しく眺めました。下記の話を、荻野さんから伺いました。僕は、今でも月曜日につくばのKEK、水曜日に和光の理化学研究所、金曜日に東海村の研究室に行っております。東海村ではJ-PARCの重イオン加速の可能性について色々と相談をし、理研ではいろんな国際協力のお手伝いをしております。そろそろ歳なんだから、車の運転は辞めたらと言われていますが、未だに車で通う生活を送っております。
ところで、ご存知だと思いますが、湯川先生は、コロンビア大学時代にノーベル賞を受賞されました。当時、コロンビア大学の総長が祝辞を伝えたいということで、湯川先生を総長室に呼ばれたそうです。湯川先生はノコノコと総長室に出向いたそうです。しかし、僕が在籍した頃のコロンビア大学物理教室では、あの総長はけしからん総長であった。総長自らが湯川先生の居室に出向いて祝辞を言うべきだった、と何人かの教授から聞きました。そこで僕は、その折の総長は誰だったのかと尋ねましたら「アイゼンハウアーだった」と聞きました。後に米国大統領になった人で、コロンビア大学の総長を辞める時には「Too much politics at Columbia University!!!」と言って辞められたそうです。
湯川先生が京都大学に戻られた後に、湯川先生の居室引き継いだのは、T.D.Leeです。僕の居室は、彼の居室の斜め向かいだったので、彼のオフィスに行くたびにその話を聞きました。T.D.Lee は湯川先生の机や黒板、多くの家具を大切に使っておられました。
かなり最近の話になりますが、理研の理事長をされていた野依先生が、理研・BNLセンターのお礼を兼ねてT.D.Lee のオフィスに伺ったそうです。その折に「これは湯川先生が置いておかれたものだが、何のためのもの分らない」とT.D.Leeが言われて野依先生に見せたものが、手拭いでした。野依先生はこの手拭いを大切に理研に持って帰られました。そして、それは「湯川先生の手拭い」として、今でも貴重品として理研に展示されております。
ちなみに、T.D.Leeは、今はSan Franciscoに移られ、このオフィスも改装されました。湯川邸のことを書かれておりましたので、つまらない話ですが、ご参考までに。
永宮正治
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そうなのです。これを読んでつい夜なかに笑ってしまいました。そしてすぐお返事を書きました。
永宮先生:お久しぶりです!先生もお元気でますますご活躍ですね。群馬大学のアドバイザーもまだしておられるのですか?このメール面白いですね。私のブログに、紹介してもいいですか?みんな面白がります。アイゼンハワーは米大統領の中でも、私は一番好きです。彼の大統領をやめるときの最後の名演説はすごいですね。しっかり考えていた科学者だなあと思いますが、大学の学長だった方でしたね。どういうご専門だったのかなあ。
例の国際会議では、天皇陛下の挨拶で、原爆のことに触れられて、皆さんに感銘を与えたのを忘れることができません。私もぎりぎりまで、どちらの話にしようかと迷った末に、空気を読んで、湯川の学問の方の話をしました。あとで佐藤文隆さんに「あんた天皇陛下にまけたな」と言われました。美智子さまと初めてお話しする機会に恵まれましたので、「陛下が原爆のことを話されて感銘を受けました」といったら、「あれはご自分で考えて入れられたのですよ」と言われました。きっと美智子さまにも相談されたのだなと思います。美智子さまは、猿橋勝子さんとか女性研究者のことにも触れられ賢い方ですね。
そういえば、 永宮先生との対談をさせてもらいとても面白かったです。一方、湯川由規子さまから聞いたお話では、湯川さんは当時もうがんにかかっておられたのですが、「僕の研究していたことが世の中で役に立つとはこんなうれしいことはない」と新聞の切り抜きを取っておられたという話を、最近湯川由規子さまから聞きました。最近知ったのですが、π中間子を使った医療の話はバークレイから始まったようで、当時、京大での放射線治療の草分け役を果たされた阿部光幸先生も興味を持たれバークレイを訪問されたそうです。
ではでは
坂東昌子
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翌朝の永宮先生のお返事で「早速のメールありがとうございました。ブログに掲載してもイイかという話ですが、役にも何にも立たない記事ですが、どうぞ。」とのことでした。こうしてつながるネットワークは楽しいものです。
湯川邸が長谷工のお計らいで京都大学の所属になり、現在安藤忠雄設計事務所が古くなっているところを補強し改装の設計中です。「湯川博士の贈り物」はこのオープンの日まで(おそらく2025年度になると思われます)続けていきたいと思っております。湯川先生の遺品
など整理する中で、これ等を随時、紹介しながら、これからの科学のあり方に思いをはせるひとときにしたいと思っています。すでに科学関係のものは基研で整備されていますが、湯川邸には、他の文化的遺品が数多く残されています。20世紀に生きられながら、21世紀の分野横断的精神ももちつづけた湯川科学精神を思い、共同利用という新しい概念を実現された湯川先生の思いを受け継ぎ、後世に残せるようにという思いを込めて企画したものです。(日本物理学会京都支部との共催)。
また次の話もついでに面白いです。
坂東さんが来てくださった国際会議のことですが、当時、僕は学術会議の会員をやっており、また、IUPAPの分科会の委員長もしておりました。そのため、いち早くIUPAPに提案をし、学術会議にも認めて頂きました。認められると会場費は学術会議が負担するということで、東京国際フォーラムにしました。かなり評判が良かったので、Wikipediaで「日本学術会議」と引くと、その会議のことが掲載されています。学術会議主催の場合は、皇族を呼ぶ資格が出てきます。組織委員会で諮ったところ、一番来ていただけそうな「皇太子とかその次の方がイイのでは」という意見が大半でした。しかし、僕は「折角呼ぶなら一番難しい天皇皇后にしよう」と提案をし、一番上に印をつけたのが始まりです。
実は、その直前に天皇皇后はヨーロッパ旅行をされました。確かリンネ協会の招きがトリガーだったと覚えております。旅行の後は静養期間が必要だということで、宮内庁の最初の審査では、僕の提案は落とされました。しかし幸い、僕は当時の学術会議の会長であった金澤一郎先生と「ウマ」が合い、懇意にしておりました。この先生は、東大医学部のお医者さんでしたが、当時、天皇の侍医をしておられました。その話をどこかですると、金澤先生は「天皇の健康については私が責任を取るから、永宮さん主催の会には出席すべきだ」と言って下さり、結局は宮内庁の決定を覆してくださいました。その後、会議でのスピーチの原稿を何名かにお送りしました。政府の高官の方はそれを棒読みにされましたが、天皇だけは侍従を介して、多くのコメントを下さいました。多々ありましたが、「湯川・朝永・仁科等の先生の名前が出ていないのはいかがなものか。きちっと調べて送り返してほしい」等、多々ありました。そして、会議の前日の土曜日に、侍従を介してですが、何度も何度も文章に関するコメントが加えられ、かなりの作業をいたしました。それをいちいち英文のテロップに入れ替える作業も続けました。大変でしたが、僕もその折、天皇陛下は、やはりきちっとしておられて「偉い方だな」と思いました。月曜日の会議でのスピーチの日、天皇皇后陛下を東京国際フォーラムの駐車場でお迎えしました。金澤先生や数名居られました。その折、天皇は「土曜日は休日なのに、丸一日働かせて申し訳ありませんでした」と第一声を発せられ、恐縮したことを覚えています。 余談ですが、あの会議では、内閣府と文科省の両大臣をお招きしました。ところが、両省がどちらの大臣を天皇側に配置するかで大変に揉め、結局は、内閣府は大臣を、文科省は副大臣を送って席順を決めるということで決着をしました。その頃の文科副大臣は女性でしたので、坂東さんを含めてお二人の女性が喋られたので、外国人の数名から、「日本では女性がかなり優位な構造になっているではないか」と言われたことを思い出します。あの国際会議を巡っては、いろんな思い出があります。しかし、もう15年も前のことになってしましました。お互いに歳はとるものです。お元気でご活躍ください。
永宮正治
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