2024年04月20日

安易な「福島原発周辺地域における、児童避難準備の提案」に反対する 」の補足説明

4月21日付で、『安易な「福島原発周辺地域における、児童避難準備の提案」に反対する』を、東北関東大震災情報発信ページに掲載しましたが、最近の情勢の変化もあり、少し補足をさせていただきます。

1.福島原発の状況は、多少落ち着きを見せてきているとはいえ、現段階でも事態の収束が見えてきたとは言えない状況にあります。また、この事態の収束にはかなり長い年月がかかることも、明らかです。4月22日の時点で半径20km圏に加え、一部放射能の高い区域が、新たに計画的避難地域に指定されています。現時点での区域指定については、ICRP の基準をもとに算出されており、一律的な距離からの設定でなく、実際の地域の測定値よりの「警戒区域」の設定となっています。

2.さて、その地域を越えて、「福島原発周辺地域における、児童避難準備の提案」に言及されているように、たとえば50km圏の子供達については、避難を推奨するのが適切か否かということです。私自身は、自主的避難を否定しているわけではありません。少し放射能の高い現在の地にとどまるストレスと、新しい土地で(場合によっては家族から離れて)暮らすストレスと天秤にかけて、当事者が判断すべきと考えます。従って原発警戒区域近住の自主的避難希望者に対しては、自治体、政府が十分に便宜を図ることは当然のことと考え、それをサポートするような取り組みには賛成です。(図参照)

3.今回、科学者が現段階で、福島県域における児童避難準備提言については、放射線の危険性を過度にあおることになるという点を懸念し、また、放射線の影響の検証、避難によるマイナス要因の検証が今回の提言では不十分であると判断しました。現段階で科学者がこのような声明をしたら、やはり福島県域は危険なのだと思われ、更にいわれなき風評被害が拡大することが懸念されます。このような声明は結果的にただでさえ、風評被害に苦しんでおられる福島県の方々を追い詰めることとなります。総合的に考え科学者が今回の提言をすることは、マイナスの影響がより大きいと判断し、反対しました。

4.これまで、放射線の危険性を声高に叫ぶ論調が大勢でした。しかしながらごく最近、テレビ、雑誌でも、風評被害や福島の方の言われなき差別に対して、取り上げられるようになってきました。しかし今なお、福島の方を放射能を発する物のように見る見方、自治体までもが除洗証明を要求するといった、無知からくるとんでもない差別がまかり通っています。身体についた放射性物質は服を脱いだり、お風呂に入ることで大部分は除かれます。入浴や着替えを勧めるのでなく、除洗証明を要求するということは、差別した側が、無知からくる差別であることに気づいていない点に大きな問題があると考えます。私は、科学者がこのような児童避難準備の提案声明を出すことは、言われ無き差別を助長するという事で反対を表明しました。ホームページに反対意見を掲載する事については、あいんしゅたいんの坂東理事長、松田副理事長とも議論し、コンセンサスは基本的には得て、掲載しています。

5.この間、物理学者と生物・医学者との間の放射線の影響に、感覚の違いがあるということに私たちはきづき、その違いを検証し、埋める努力をしてきました。現段階で放射線の危険性のみをあおることが正義とは思いません。実際、過度の放射線ノイローゼも増えていることが報告されています。放射線の危険性を大きく言うことが正義で、この程度は大丈夫という研究者は、御用学者というレッテルが貼られる傾向が、最近はまかり通っています。私は長年にわたり人の免疫機能を測定してきました。癌の再発リスクは、心の状態によって大きく違うことも見てきました。低線量放射線のリスクを、過度に言うことも、過小に評価することも、問題があると思っています。現段階では、福島原発内で事態の収拾に当たっておられる方々は別として、周辺住民が受けておられる放射線量は、低線量域と言われる、あくまで数年から数十年先にがんになるリスクを上げる可能性があるというものです。

6.私は免疫学者として、がんリスクにおいては放射線そのものよりも、免疫機能およびそれに影響を与える心の状態の方が大きく影響を及ぼすと考えています。がんが大きくなるには、変異細胞の増える環境の方が問題となります。一度少し多い目の放射線をあびてしまったから、がんになるのでなく、その時に出来た変異細胞が除去できなかったからがんになるのです。そういった意味では、放射線をあびて以降の生き方の方が、がんという貧乏くじに当たるかどうかに大きく影響すると言えます。

7.従って、放射線の危険性を過度に言うことが正義とは思っていません。放射線のリスク、生まれ育った地を離れるストレス、これらを正しく評価する必要があると考えます。少量の放射線でも危険、それを言わないのは不誠実であり、そんな科学者は御用学者か東電の回し者という固定概念で、物事を判断するのは危険と考えます。リスク評価は、その都度すべきです。特にがんリスクのような確率的リスクについては、放射線だけでなく、生体のもつ修復機構、免疫機構、ストレスの影響など、総合的に考えるべきものと考えております。

8.研究者として、私自身エイズ教育、患者支援に深く関わってきました。エイズパニックが起こった頃の経験は、リスクをきちっと評価することなく、過剰にいうのも、過小に言うのも科学者として無責任と考えております。1999年に経験したことを書いたエッセイを合わせて添付します。


「エイズ学会 混乱から多くを学んだ」 宇野賀津子
(未知しるべ 朝日新聞1998年12月12日号掲載)

ある会場では「HIV(エイズウイルス)遺伝子の変異がーーーー」というような最先端の議論がある一方、ある会場では患者さんを取り巻く問題が議論されている。研究者のみならず、医者、ソーシャルワーカー、そして患者が参加していて、その比率は皆同じぐらいというエイズ学会は異色の学会である。

【中略】

エイズはいろいろなことを私たちに教えてくれた。当初研究者や医者が社会的にも無知で、危険は感じながらも警告を発しなかったことが、この病気の悲劇を大きくしたことも、研究者や医者が社会と無縁でないことも。最初エイズという非常に致死率の高い病気が広がっているとなった時、この病気の解説書として研究者のかいた本のタイトルは「現代の黒死病」「世紀末の病」など、いかに悲惨で、恐ろしいかのみを強調するものであった。これはマスコミの宣伝にもあおられて、結果はHIV感染者をこの国で生活しづらくしてしまった。

またエイズウイルスがだ液の中にも見つかったというニュースが流れた時、コメントを求められたあるウイルス学の大先生は、「そりゃ、一匹でも見つかれば、キスでも理論的にはエイズに感染する可能性はありますよ」と答えた。これは研究者としては一見厳密な答えのようであるが、現場では混乱を巻き起こした。蚊のすった血の中にウイルスが見つかったとなれば、感染者と同席するのはどうもという意見が出て、患者を孤立させた。患者さんとの接点のある医者や研究者はこれではだめだと気づき、感染が成立するにはバケツ何杯分ものだ液が必要だし、一回に何十万匹もの蚊にさされることが必要ですよといいなおした。そして危険度に応じて、これは非常に危険とか、まずもってありえないとか、それは絶対ないとか、言葉を選んでしゃべるようになった。このように、研究者自身が、責任逃れのあいまいな表現がかえって混乱をまねくことに気づいたのである。

【中略】

エイズ治療や研究には多くの研究費がつぎ込まれた。世界の英知がこの病気に向けられた感もある。そしてエイズという新しい病気に体当たりでぶつかった医師は、いろいろな階層の人とのコミュニケーションを通じて、医師のみの力では患者の立場に立った治療はできないことに気づいた。各部門の専門家の相互協力や患者の心の問題をも考慮することなしに薬の効果を百パーセント引き出せないことも。願わくば、ここでの体験が他の患者の治療にも広げられていくことを望む。がんの患者さん、糖尿病や心臓病の患者さんしかりである。そこから二十一世紀の治療が始まるのではなかろうか。