2024年04月19日

「あいんしゅたいん」でがんばろう 44

四つの科学 その2

四つの科学

科学の意味を広く捉えようという趣旨で「四つの科学」というダイアグラムを前回に提示した。四種類の科学があるというより、「基礎科学」、「科学技術」、「ワールビュー」、「社会インフラ」の四隅に囲まれる領域の中に科学があるという趣旨である。このブログに付けた図は前回の図を単純化したものである。図の左右は左が専門家の世界、右が一般人の世界であるが、今回は右側の部分を議論する。右側の精神的な「ワールビュー」と生活の実際を支える「社会インフラ」の中間部分の話である。

自己啓発の科学

話が飛ぶようだが、本屋にいくと自己啓発本にあふれているが、「スタンフォードの自分を変える教室」「ハーバードの人生を変える授業」「選択の科学的:コロンビア大学ビジネススクール特別講義」といったアメリカの翻訳本も目立つ。特に「スタンフォードの・・・」は日本でもベストセラーの様で、著者が来日してテレビに出ているのをみた。自己啓発の日本人の人気者達は、名門大学の名前を売りにはしないが、アメリカではスタンフォード、ハーバード、コロンビアといった名門大学の名前を背景にする様である。これらの本をめくって見ると「科学」という文字がよく目に付く。日本人の場合はカリスマ性が欠かせないと思うのだが、アメリカでは「これは科学だから、誰でも実行できる」という点を売り物にしている様に見える。「科学者として自分を観察する」ことが説かれている。

カリスマ性は特異な体験や稀な僥倖が醸し出すものであり、伝わるものは普通に伝搬する知識というよりは論理を越えた情感によるものである。それに対してアメリカでは、科学にその根拠があり、誰にでも実行出来ることを強調している。確かにこれらの著者は一介の研究者、教師であり、人生経験にカリスマ性があるわけではない。むしろあれこれの実証研究の内容を上手に引用して話を展開していく技の名人なのである。そしてこの「科学である」のお墨付きの誇示には名門大学名と引っ付くのがいい。

日本で科学と聞くとiPS細胞やダークエネルギーといったものを思い浮かべてしまい、「自己啓発の科学」「意思力の科学」とかには結びつかない。精々が似非科学扱いにされる。科学の成果は製品や医療者をとうして「社会インフラ」として一般の人々に達する。あるいは、 「ワールビュー」に関わる 教養として気になる先端の知識である。何れにせよ、多くの人を「あなたも科学者になれ」と引き込むものではなく、自分からは離れた処で専門家が行っている営みである。ではアメリカでのこの現象の「科学」は言葉の誤用なのであろうか?

STEMと科学

筆者は誤用ではないと考える。このように「科学」という言葉を広く捉えるべきだと考えるものである。下の図に示したように「四つの科学」の右側の上限と下限の中間に、この様な身体とマインド両面に絡む自己啓発と自己管理、さらには仕事と市民生活の中でのスキル、があるという見方である。この自己啓発の科学の効用を評価できるわけではないが、人々のニーズのあるところ何処にでも、科学の方法の活用を試みることは大事なことである。全てではないにしろ、真摯な実践・実験でトライしながら科学がこれらの場面に登場することは大事なことだと考える。

以前、このブログでアメリカの教育改革の用語としてのSTEM (science-technology-engineering-mathematics)について解説した。科学教育の改革というよりもイノヴェーションのための教育改革という方が適している。理系の教育というよりは理系技術の進歩が社会生活の改善に繋がっていない目詰まりを切り開くことである。ここで米国の関係者の論説には1930年代に活躍した米国の教育哲学者デユーイ(John Dewey)がしばしば持ち出される。筆者の推察も入るが、これは「若々しかったアメリカ」を想起しようという方向性であろう。このデユーイを遡ればパースやジェームスのプラグマテイズムにも行きつく。それは、二十世紀初頭、頭でっかちになったヨーロッパ学問世界の一種のリフレッシュであった。

1830年代にアメリカを訪れたフランス人のトクヴィルは「精神を働かす多くの場合、アメリカ人はみな自分を一個の理性の働きにしか訴えないということに気づく。アメリカはだからデカルトの教えを人が学ぶこと最も少なく、これに従うことは最も多い国の一つである」と述べている。すなわち、体系を排し、眼前の事実を大事にし、権威に頼らずに独力で探究して結果を目指し、定式とその堪えざる改善で真理に無限に接近する、というのである。

このトクヴィルの観察した新生アメリカの精神風土を理論化したのがパースであり、無名で一生を終えた彼の考察をアメリカ社会に広めたのがジェームスやデユーイであり、プラグマテイズムの哲学と呼ばれる潮流である。

パースの科学の方法

パースは科学を次のように位置づける。一般に疑念から信念に到達する努力には古来四つの方法がある。固執の方法、権威の方法、先天的方法、科学の方法、である。固執の方法とは自分の気にいるものだけで自分の中で信念を固める方法であり、日常よく陥りやすい道である。権威の方法とは固執の方法を組織化された集団に拡大して、それに靡かない異物を攻撃して排除する。これは一時的に確信に向かうが、後に意図的に何かを排除した歪に気づく。先天的方法とは1+1=2の様な、理の方法で信念を固めるものだが、具体物と理の結び付け方に個人の嗜好が入り、理は当然であっても、それを適用する場面が恣意的にる。この様な個人の偶然的な気分や、社会の集団ヒステリーの影響や、理の恣意的操作のトリックなどの陥穽を避けるには、チェック機能を人間界の外側に求める必要があり、それが四番目の科学の方法である。(魚津郁夫「プラグマテイズムの思想」(ちくま学芸文庫)を参照した)

パースによる、この様な行動哲学としての科学の導入は同時に実在的真理論でもある。他の三つの方法よりは科学の方法を確かなものにする存在として外界が位置付けられているからである。プラグマテイズムというと実用主義という日常語と混用され、また伝統文化の深みを欠くアメリカらしいと、勝手な思い込みでレッテルを貼る感がある。

確かに、ジェームスやデユーイが説教師の様に大衆に人気を博したのは、体系を排して実験的試行錯誤を鼓舞する、ヴァイタリー溢れる行動主義であった。ところが世の中の専門分化が進み、社会の制度的仕組みが夫々権威を持って人々の上に覆いかぶさって、大部分の人は抑圧感をもって生活している。こうした中では若々しい時代のアメリカで人気を博したような行動主義は萎えざるを得ない。安全保障で心を一つにできた冷戦時代の熱狂が鎮まってからは特にそうであった。

「科学的」のトラウマ

ところが「社会インフラ」の場面に科学を持ち込むことについては歴史的には数々の苦い経験がある。次回はそこから始める。

 
 

(次回に続く)