「あいんしゅたいん」でがんばろう 36
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2011年9月12日(月曜)15:24に公開
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作者: 佐藤文隆
理科とSTEM 第4回
理科の「目標」は二本柱
理科の指導要領の目標の背後には「科学的な自然観」と「日本人的な自然観」が混在していると、藤島氏がいう。ここで「日本人的な自然観」というのは第二次大戦前までの日本の農業社会に組み込まれていた自然観を指している。そして子供の家庭・社会体験や自然と関わる経験も大局的にはこの農業社会に根ざしていた。同氏は二つの自然観が「目標」に混在しているのはよいことであり、理科の核心だという。
しかし、戦後日本社会の中でその現実は変貌してこの「目標」を実行する基盤が失われたが、自然観のこの二つの柱は両方とも必要なものである。ところが、戦前までの農業社会を生きる国民の教育という前提のもとでひとりでに整合的だった意識で書かれた「目標」なので、この現実環境が変化した中でどうするかは自覚的には取り組まれなかった。藤島氏はこれを補うために、授業の実践活動で農業社会に生きる擬似体験が大切であると提唱・実践を行なっている。すこし性急過ぎるかもしれないが、藤島氏の本の流れは大よそこのようなものである。
この後は、理科には二本の柱が必要であるという問題提起を受けて、話を「指導要領」を離れて、少し一般論に移して行く。前回書いたように「教育基本法の改正があった2008年の大改訂でこの文章は何十年振りに少し変わった」内容(文章そのものでない)を補足しておく。前回書いた「目標」6項目の「5 自然の事物・現象についての理解を図る」が「5 自然の事物・現象についての実感を伴った理解を図る」の内容に変わっている。
科学の力不足と社会の抑圧
ここで「日本人的=農業社会的な自然観」に対比された「科学的な自然観」のイメージは科学の力で自然を利用し制御していくものである。「科学的な自然観」という漠然としたものをこうだと決めつけることには異論もあろうが、食糧や生活物資の生産力、医療や衛生、教育や生き甲斐、性差別や福祉、自由や平等、などなどの近代民主主義の進展に科学が力強く貢献したのは自然の利用・制御であったことは事実である。特に自然環境を改造しての感染症の克服や食糧増産が、人間の基本的な解放の基盤であったことを忘れてはならない。そしてそれは昆虫や微生物の手つかずの自然に従属することでは不可能であり、積極的に自然を利用制御する事で達成されたのである。
しかし、日本に根をはったかつての農業社会というのも自然利用の一形態であり、けっして、手つかずの自然主義ではない。日本流の科学の力での自然の改造であった。自然の猛威と格闘して、押し合いへしあいでどうにか治めていた姿ともいえる。このために、人々の自由を抑圧した社会的拘束を維持し、自由や平等という人間社会の解放を押し留めていた側面もあった。科学の力不足が社会の人間関係を抑圧するように作用していたのである。だが同時に、生産力が低いなら低いなりに、科学の力で改造された「第二の自然」が基盤をなす「第一の自然」を破壊する可能性を暗黙裏に制御していたともいえる。
エコロジズムの勃興
戦後社会から遥かに離れた現在、化学汚染、放射線汚染、新型インフルエンザ、温暖化、などなどの出現で、「第二の自然」の猛威は明白となった。少なくとも先進国では、1980年代後半からは、この認識は広く定着してエコロジズムという文化が登場した。
エコロジズムの流れはいまや先進国の文化に定着したかに見える。しかし、その正体は同床異夢であり広いスペクトルに分布する。この幅広いスペクトルの最右翼ではこの「第二の自然」の管理自体にも科学の力が動員されなければならないとくり返し、最左翼には科学の力に頼るのはやめて「第一の自然」での人間の位置を弁えてその規範に従属しようと叫んでいる。
1990年代に入っていっせいに社会風潮の前面に登場した「自然保護、自然愛といった心情の高まり」に私はいささか面食らった記憶がある。1995年に執筆した拙著「科学と幸福」(岩波現代文庫)にはその苛立ちの一端を記している。
「自然への熱い視線:現在の状況ではこうした自然への「熱い視線」の中身はきわめて複雑なものである。科学への反発が自然に向かう場合もある。また科学も一色には扱えず、科学のある分野への反発が他の分野を産んだりもしている。したがって、最近多くの人々を捉えている、環境への関心、自然保護、自然愛といった心情の高まりを前に、「はい、自然のことでしたらこの自然科学におまかせ下さい。知でも実でもご利用下さい。いろんな分野を取りそろえてお待ちしてます」といったマッチポンプ的な屈託ない態度で応えようとすれば大やけどをするであろう。科学の知が引き起こした自然環境や人間関係の破壊への失望が自然に目を向ける動機になっていたり、科学の目を通して見た自然像への不満から自分流に自然に関わろうという場合もある。さらに過激に完全な反科学主義の場合もある。しかし例えこうした反発の場合でも、自然や科学との強い繋がりがここに発生していることは重要な事実である。愛憎半ばする関係というものほど強いものはない。
こうした環境への関心、自然保護、自然愛の心情は一見近代以前への復古主義のように見えるがけっしてそうではなく、それ自体が近代の中で育まれてきた思想である。自然の外に立つ人間が自然を利用するという知の力の伸長への反応として、意識されてきた思想であろう。それまでの人間にとって自然は敵対と畏敬の、この共存する存在であって、決して愛する対象ではなかったと思う。もちろん、敵対・畏敬のかかわりのかたちが愛するに引き継がれるものは多いであろうが、基本に於いて近代の思想であることの自覚を忘れるべきでない。そうしないと抜け道のない反動思想になる」(第五章195頁)
科学の社会的失敗
このエコロジズムは「日本人的な自然観」と一緒のものか? また理科で教える自然の知識は「二つの自然観」とかエコロジズムに対して中立的であるべきなのか? それとも科学的な自然観の社会的失敗を教えるのも理科の役目なのか? 失敗は社会的原因に押しつけて科学自体は不謬だと言い張っていくのか?、それとも科学自体を統御する対抗価値観を登場させるのか? エコロジズム最右翼の立場を教えるのが理科なのか?・・・???こういう発散状況の問題は、一見高級な論議のように見えているが、学校教育の教員の熱意の源泉にかかわる極めて実践的な職業観なのである。理科教育でもどっちかにしておかないと教師は迷ってしまうであろう。低学年の子供を前にすれば、複雑な社会的・歴史的背景抜きにきっぱりしたことを言わねばならない。それこそ指導要領が重要になる。私は理科は自然と人間の関わりを教えることを「目標」にすべきだと思う。科学の知識は人間の幸福のために必要なものである。