2024年10月07日

静岡大学での出会い(ブログ その21)

プロジェクトXXへの思い

「女性が参画すると、学問世界・大学組織・社会はどのように変わるのか 、なぜ女性研究者の採用加速が必要なのか を語りあい、多数の男性管理職の方々の本音の部分での意識改革に迫りたいと思います。」というメールが舞い込んだ。
静岡大学の副学長(男女共同参画・学生担当)の舩橋恵子さんだった。先を考える姿勢がさわやかで、本当の知性を感じてお会いもしていないのに心が通い合った。私たちの書いた本「性差の科学」も読んでいただいているという。
メールでのやり取りでは、「お互いに先生はやめて、さんづけで・・」とすぐ合意できたのもうれしかった。

男女共同参画へのさまざまな取り組みが進んできた。「子育て支援」「キャリアパス復帰支援」「若手を励ます企画」「サイエンス普及活動」「未来の科学者たちへの激励」などなど・・、たくさんの活動の中で成長した女性研究者もたくさん現れ始めた。女性研究者が上層部にも出現してきた。

でも、私は何かそれだけでは物足りなさを感じている。もっと先が見たいなあ、という思いがずっとあった。
もう少し踏み込んで、女性が科学の世界に参画したとき、従来の科学で欠けていた何かを新しく創り出せるのではないか、そういう発想からのアプローチはできないものか。
京都大学女性研究者支援室と京都女性研究者の会との合同で始めた「性差の科学」シリーズも、この方向へのアプローチである。また、私もメンターとして参画している神戸大学の取り組みで、「子育てと研究の両立支援を行い、子育てにより研究成果を落とすことなく、一層の成果をあげることができる環境整備をするため、研究支援員を配置する」というのがある。
そこで、支援を受けた女性研究者の成果発表会を聞く機会があった。3人の女性研究者の発表を聞いて、彼女たちが「せっかく支援してもらったのだから、その支援の時間ぐらいは、社会に役立つ仕事を取り入れよう」と頑張った事例、「せっかくいただいた支援だから、新しい分野に挑戦する試みをやろう」という事例、どれもチャレンジ精神満杯の報告だった。普段なら目の前の研究だけにあくせくすることで終始するしかない研究者が新しいことを始めるきっかけにしている、これが印象的だった。男性研究者も忙しい現状で、ちょっぴり時間がもらえたのだから、チャレンジしてみよう、という姿勢に感動した。実は、最初は、これ自体は「やっぱり子育て支援か」と思ったのだが、この成果発表の素晴らしさに感銘を受けた。きちんと考えて取り組んでいたら、どんな課題でも、新しいものを発見できる、創りだせる、それが面白いなあと思った。

こんな話をすると、子育て支援ではだめだと言っているように思われるかもしれない。
そうではない。昔は「子供を産んで面倒見てくれとは厚かましい」といわれたのが、アカデミックな世界でさえ、子育てを支援する体制にまでたどり着いたのだとも思う。
女性研究者にとって最も困難な時期は(尤も、喜びにあふれる時期でもあるのだが)、妊娠・出産・子育てと研究の両立という時期である。だからこそ、私たちの時代で、もっとも重要だったのは、「保育所」の設立が望まれたのだ。そして、私たちは、「京大に保育所を」という当時にしては突拍子もない目標を立て、「保育所づくり」の運動を始めたのだった。そして、今、子育ては、少子化という新たな問題とも連動して、女性研究者支援の最も重要な柱の1つの存在となっている。
このことをとりあげ私たちが運動を始めたのは、もう40年も前であることを思うと感無量といってもいい。その後、子育ては支援が進み、今は、男性が「子供を迎えに行くので先に失礼する」などというのが、それほど違和感がなくなった時代となった。子育てを男女で協働する、というのはそれほど難しいことではない。男性でも「子育てのような楽しい仕事を女性だけに享受させるのはもったいない。男性も育児休職制度を使いたい」と自ら志願する男性も現れ始めている。北欧では、週日に、子供を乳母車に乗せて公園を散歩するお父さんの姿は普段の何気ない風景らしい。

しかし、女性にも多様な生き方がある。いくら少子化の時代だからと言って、結婚しないという選択もあるし、子供のない女性研究者だってたくさんいる。子育て支援だけが重視されすぎると、女性研究者の優れた多様な生き方から学べない。

私は、この意味で、進化中立説を提起された木村資生の講演記録を読んだ時の印象が強く残っている。
話はそれるが、1960年代、京都大学で1969年に始まった「玉城記念講演会」は、第1回が朝永振一郎・湯川秀樹・寺本英の3氏から始まっているこのシリーズは、なかなかのものだ。湯川・朝永と一緒に「てらポン」(みんな当時こう呼んでいた)の「物理学からみた生物の一面」が並んでいるのも、いかにも京大理学部らしいなあ、と思ってしまう。実はこの頃、京大の助手をしていたので、このシリーズの最初の方はみんな持っている。正直言うと、1年前定年退官の機会に、研究室を片付けていた私は、このシリーズを廃棄しようと思って中身をパラパラと読み始めた。そして、あまりに面白いのでとうとう捨てきれずに持って帰ってきた。
こんな調子だから、家に本が入りきれなくてまだ、段ボールがつんである。どう始末するか、この夏休みには方針を決めないといけないなあ・・・。

それはそうとして、そうなると、最後まで問題が残るのは、妊娠・出産である。
先の木村資生の講演で強く印象に残っている記述があった。それは、妊娠出産の話だった。木村資生は、生殖技術の発展が、「将来、妊娠出産からの女性を解放するだろう」と言い放っておられる。こういう発想のスケールがすごいなあと思う。
女性研究者の3M(Marriage Maternity, Movement)障壁は、科学技術の発展と共に低くなっているのだ。 近代家族制度がどのようにして成立したか、そしてそれが将来どういう形になっていくのか、それを考えるスケールが、社会科学だけでなく自然科学で得られた成果とも重なって拡がっているのを感じる。もちろん、いろいろな問題をクリアしないといけないが。

話をもどそう。「女性研究者愛知大学での定年を前にして学内研究助成(共同研究)、「女性研究者のリーダーシップ研究」をくんだのも、その思いの表れで、女性が切り開く科学の前線を見据えたいと思ったのだ。
世界の歴史の中では、シーア・コルボーン(環境ホルモン)、レイチェル・カーソン(農薬による環境汚染)・アリス・ハミルトン(産業医学)、ルーシー・ディーン(100年以上前にアスベスト被害を警告したイギリス技術者)など、いろいろと新しい学問領域を切り開いた女性たちがいる。
日本でも、猿橋勝子(地球循環環境)や中西準子(水環境など)、やはり環境と関係する分野が目立つ。これらの女性研究者の特徴があるように思う。1人1人、よく見るとなかなか興味深い人生がそこにある。それを探ってみたいのだ。

例えば、レイチェル・カーソンは、「沈黙の春」で、人類の農薬に対する生き物への影響について警告を発したときは、農薬会社をはじめとして「ヒステリー女」といわれたそうだが、それにもかかわらず、これだけ、多くの人々心をとらえ、環境問題への学問分野を開拓することができた。
どうして、押しつぶされないで、世論を広げることができたのだろう? 彼女のたぐいまれな文才のおかげだろうか、それとも、たまたま、当時の大統領ケネディの目にとまった。これがきっかけで、調査委員会は、1963年農薬の環境破壊に関する情報公開を怠った政府の責任を厳しく追及し、DDTの使用が全面禁止となったという。そういえば、戦後の話だが、私などは、頭に虱がわくというので、DDTを全員頭に振りかけられたものだ。

アリス・ハミルトンの場合は、もっと興味深い。
彼女が、鉛の公害の危険を訴え、鉛会社に直接訴えた時、殆どの会社では、無名の彼女は門前払いだった。例外だったのが、ナショナル鉛会社の副社長だったコーニッシュだった。「もし調査してそれが本当なら君を雇って環境を改善してもいい」といわれ、実際にデータを示した。そして、会社が環境改善に乗り出したということだ。おかげで、この会社が対策をしなかった会社を追い抜いてトップの会社となったそうだ。こうしてみると、いつも、そこには、実行可能な力をもつ優れた男性がいる。

権力をもたない女性たちが、しっかり真実をつかんだとしても、それはそれほど、世論を変え世界を変える大きなうねりとはならない。
その例が、1898年にアスベストの被害を訴えたルーシー・ディーンである。彼女については、インターネットで探しても写真も見つからない。
この無名の早期に警告を発した女性技術者を見つけ出したのは、ヨーロッパ環境庁が出版した「レイト・レッスンズ 14の事例から学ぶ予防原則」(欧州環境庁 編)である。
早期警告の事例を14取り上げて、そこから私たちは何を学ぶべきかを説いているのだ。こういう本を出せるのは、EUができたおかげかもしれない。

アスベストの被害は、1909年と1910年にも女性監督官によって英国主席工場監督官の年次報告に掲載されているという。
もちろん、政策立案者や政治家の間に回覧されたはずであるが、専門家ではない女性の観察は、"専門的意見"とは見なされず無視されようだ。彼女は医者ではなかったので、当時の権威ある地位にあった医者たちは、彼女らのレポートを無視したらしい。
その理由がふるっている。1906年に、モンターギュ・マレー(Montague Murray)博士は、「33歳の男性が吸い込んだアスベスト粉塵が原因の肺疾患の最初の症例」を診た。ところが、マレーは、「彼は約14年間その職場で働いたが、最初の10年間は、最も危険な作業工程である"毛羽立て室"での作業に従事していた。彼がその作業室で働いていた10人のうち、生き残っているのは自分ただ一人であると進んで言った。彼の言葉以外に私にはそれについての証拠がない。彼らは全員30歳代でどこかで死んでしまった」(Murray, 1906)と報告したという。10人のうち9人は死んでいるので、残った一人が省令を示しても有意でない、ということらしい。
こんな屁理屈で、彼女たちが警告を発したアスベストの被害が無視されたというのも、へんなものだ。統計のなんたるか、科学的事実のなんたるかを知らないとしか言いようがない。結局、長い間、アスベストの被害は大きな世論とはならなかった。

科学者には、誰が言おうと、それが男性であろうと女性であろうと、真実を見極めようとする「心」がある場合だけが、本物を探し当てる。権威や地位を振りかざすのはもってのほか。相手が無名だからと言ってそれが本物かどうか、探ろうともしない、そういう科学権威主義の学者が増えてくるとロクなことはない。私は、男女平等を信条にしなくてもいいから、真実を見る眼をしっかり持っている新のインテリが必要だと思う。今こうした新のインテリが少なくなってきていることを痛感する。そんな中で、マイノリティであろうとも、真実を語り、命を大切にしてきた科学者が、女性に幾人かでもいることをうれしく思う。

とにかく、女性が学問の世界に参画して、権威の好きな男性が多いこの世の中で、男性と同じようになるのなら、あまりおもしろくないなあ、と思うのである。

プロジェクトXというNHKの番組がある。新しい分野を切り開き苦労しながら未知の未来を切り開いていく、ロマンが描かれている。
もっとも、あのロマンは「男のロマン」だという批判が出てきて、それに応えて初めて取り上げたのが「雇用機会均等法」を軌道に乗せた「女たちの戦い」だった。これも素晴らしい作品だったが、私はもっといろいろな女のロマンがあると思う。それを描くのが今の私の夢だ。これはプロジェクトXXと名付けることにしている。XXは女の倍増した素晴らしさを象徴する。実は最初プロジェクトW(Woman の頭文字)にしていたのだが、神戸大学の近江戸伸子准教授のコメントで、すぐに採用させていただいた。染色体を1つもつ男とXが2つある女、そして、ダブルXにも通じる。

話は戻って、浜松でお会いした船橋さんは、素敵なことをおっしゃった。
意思決定に参加する女性は少ない。自分は本来こういう役にはつきたくなかったのだけれど、静岡の女性研究者の数は少なく、こうした状況を改善するために何らかの役に立とうと、この役職を引き受けたのだと・・・。その気持ち、とてもよくわかる。私も本来なら物理学会長などやるような気持ちは毛頭なかった。しかし、若い人たちの状況を見ていると、これは個人の力だけではとてもできない。学会という組織が動かなければ物事は動かない。そう思ったのだ。船橋さんは、今、事務職の方も含めて、数少ない決定機関に責任をもつ女性たちで忙しい中一週間に一度、昼食を共にし、情報交換をしているということであった。

講演会の後の懇親会では、元気いっぱいの女性たちにもたくさん出会うことができた。

あと2つ、浜松キャンパス訪問では、素晴らしい発見があった。長くなったので続編でご紹介することとしたい。