2017年03月25日

基研主導研究会「原子力・生物学と物理」のページ開設について(ブログ その87)

お知らせです・・・

この夏(2012年8月8~10日)、京都大学基礎物理学研究所で、「原子力:生物と物理」という基礎物理学研究所主催の研究会が開かれます。「基研主導型研究会」となっているのは、共同利用運営委員会に申請して、そこで採択される通常の研究会(これを「基研研究会」といいます)とは違うということです。共同利用運営委員会ではなくて、基礎物理学研究所の主催の研究会としての開催が決定された研究会なのです。すでに、基礎物理学研究所のホームページに、この研究会の案内が出ています。

基礎物理学研究所のホームページに連動して、当法人ホームページにも、議論を深めるためのページを開設いたしました。このページにいろいろな資料と議論の素材を掲載していくつもりです。

この1年・・・

当NPOでは、この1年「日本物理学会京都支部」や「京都大学ベンチャー・ビジネス・ラボラトリー」「京都大学基礎物理学研究所」「Japan Skeptics」、それに同じNPOである「科学カフェ京都」などと協力し、独立行政法人科学技術振興機構の科学コミュニケーション連携推進事業 の一部として資金援助を得て、「シリーズ 東日本大震災にまつわる科学」を開催してきました。この中で、市民から研究者から、「どうして原子力と原子物理学との間に溝があるのか」「どうして生物学者と物理学者のあいだに認識の違いがあるのか」といった疑問を投げかけられました。

今回の福島事故を受けて、私たちは、科学者・技術者の間、特に、原子力に携わる科学技術者と物理学者、そして生物・医学に関わる科学者との連携を強めることが必要であることを痛感しました。

また、2011年12月17日のシンポジウムでは、「サイエンスとバリュー」というお話もありました。サイエンスとバリューとは、よく混同されますが、サイエンスとバリューをきりわけ、私たちとしては、まずはサイエンスの知見をしっかり押さえて、考えていく必要があると思います。
この1年ほど、分野を超えた交流と議論の必要性を感じたことはありません。そして、サイエンスを中心に据えたネットワークを形成したい、なんとかこの機会に分野を横断する研究会を実現したいと願ってきました。

研究会の意義・・・・

基礎物理学研究所主催で開かれる今回の研究会は、サイエンスを基本において、お互いの取り組みを紹介し合い、議論を深め、どこまで明らかになっているかを確かめるための研究会です。そして、その基盤にたって、これからの方向を探ることが必要なのではないか、と考えています。今回は、原子力と物理・放射線と生物、それに放射線教育に焦点を絞って行われます。分野の壁をのり超えて、関心のあるみなさんに集まっていただき、大いに議論をしたいと考えています。

ホームページには、これから、いろいろな資料やコメントを、当ホームページに掲載していきます。3日間の研究会ですが、この機会を最大限に活用するために事前のHPを通じた議論にもご参加ください。

現在、この研究会では、講演を公募しています。講演はしないが参加することも歓迎です。申し込みの希望をホームページから受け付けています。詳しくは、ホームページでご確認ください。

湯川先生の思い・・・

2012年4月、京都大学旧湯川研究室同窓会有志の名前でアッピールが出されました。その前書きに、湯川秀樹博士(1907-1981)が、1956年1月に初代原子力委員に就任、そして翌年3月には早くも辞任にいたる経緯について、元同窓会メンバー(物故者)であり、当時原子力委員会特別委員として終始、湯川博士を補佐した故井上健氏(1921-2004)がつづる貴重な論考「旅路」(日本放送出版協会、1984、『湯川秀樹』所収)の存在とその叙述の一部が紹介されています(全文はこちらにあります)。

“先生がわが国最初の原子力委員に就任されたのは昭和三十一年の正月でした。・・・委員長に予定されている正力松太郎氏から就任要請があったことは聞いていたものの、よもや先生が受諾されるとは私には思われなかった。・・・先生をリーダーとする素粒子論グループの内部でも先生の委員就任に対して批判的な空気が強かった。・・・基礎物理学研究所のスタッフに対して、就任について了解を求められた席上でも、先生が現実の泥にまみれることを心配する声が多かったが、それに対して「科学者の社会的責任から」との先生の決意は翻ることはなかった・・・。

また、湯川研究室同窓生の故森一久氏(1926-2010、元原子力産業会議副会長、2004退任、UCN会創設)は、敗戦の前年(1944)九月、京大物理に入学、翌年の夏、帰郷中の広島で被爆、両親を含む五人の親族を原爆で失った方ですが、湯川博士に原子力委員就任を強く働きかけ、結局短期辞任にいたった様子を、概略以下のように語ったということです。

“1956年1月4日昼下がり湯川博士から電話がはいつた。「森さん、君に言われて委員になったけど、もうやってられないよ・・・正力氏が「研究などしなくても外国から炉を導入すればいい」と言っている。そんなことでは委員になった意味がない」と博士は不満をぶつけた。四谷の旅館にかけつけ「先生、発足早々に委員長が気に入らないからと辞めるなんて、・・・そういう問題(政治家の独走)があるから、委員が必要なんですよ」 博士の心は何とか収まり、・・・。それでも翌57年3月、結局神経性の胃腸障害で静かに辞任した。”(2007 1-24 毎日新聞(夕刊)インタービュー記事参照)

当時、私は大学に入学した頃で、この辺の事情は知りませんでした。今回の事故をきっかけにして、いろいろなお話を聞き

「ご病気が出たとはいえ、湯川先生は、ほんとに辞任されてよかったのか。」
「湯川先生が生きておられたら、この事態をどういう思いで語られただろう」
「湯川精神は今、科学者の中に根付いているのだろうか」

などと思わずにはいられません。

分野の壁を越え、国境を越え、新しい学問領域に飛び込み、真実を追求する姿勢を崩さなかった湯川博士、その先生が初代所長をされた基礎物理学研究所こそ、分野の壁を越えた方々が集い、このような趣旨の研究会を実現するにふさわしい場所であると思います。

この研究会を提案させていただいたものとして、研究会の実現のために、基礎物理学研究所のみなさんをはじめ、たくさんの方々のご協力があったことを、とても心強く思っています。ありがとうございました。