2017年07月28日

2015年1月25日開催「サロン・ド・科学の探索」第2回の報告(ブログ その118)

この日のタイトルは「戦時下の日独の原子核研究」で、ちょうど東京から京都に来られていた政池明さんに話題提供していただきました。参加者は講師も含めて21名でした。次々と新しい驚きをもって知る新事実を、みんなドキドキしながら聞きました。

特に印象的だったのは、ナチ政権下のハイゼンベルグの原爆開発の中で、形態や散乱断面積の計算を、政池さん自らがチェックして、彼らの作った原爆が臨界点ギリギリのちょっと少な目になっていたことを確かめたりなさっているのに、びっくりです。式を見て「なんや、これなら解析的に答えが分かるやんか」などと言いながら式をチェックしたり、論文を読み直したり、みんなワイワイガヤガヤ賑やかでした。ハイゼンベルグがほんとにすごい人だったとすれば、ナチに原爆を成功させなかった正確な計算による故意の失敗とも考えられます。ほんとのところはどうだったのでしょうか。謎ですね。

それから、米国での文書調査に際して、写真を撮ってもダメという「only eye」と指定された秘密文書があるらしく、それはコピーを取るのも許されないらしい。しかも、複数で相談してもダメということで奥様と別々に調べていたら、奥様が何かに引っかかったらしく尋問に連れて行かれた。尤も奥様は語学は達者なのですが、それにしても政池さんは助けに行かなかったらしい。それはずっと一生恨まれているとか・・・。そんなエピソードも交えて、話は続きました。

戦後の原子力研究が禁止された状況での、日本の科学者のお話は身につまされるものがありました。連合軍GHQが調べに来たのですが、仁科研では資料はすべて焼却処分していたそうです。湯川先生の部屋を留守中にきて、調べ尽くしたそうですが、その結果、「湯川は原爆開発には全然興味がなかった」と結論付けたそうです。

これは余談ですが、実は、「湯川先生は、原子力エネルギーの重要性について、すでに、戦前ソルベー会議で得たワイゼッカーの論文をずっと大切に持っておられた」という文章が、日本物理学会誌佐藤文隆(2006年)にかいた論考に書かれています。そこには、原子核転換にともなうエネルギーの巨大さなどが具体的に書かれているのだそうです。「坪井忠治博士によると、おれは熱さが50キロメートルで150キロメートル四方の地層中に蓄えうる最大の男性エネルギーに相当する。ところが、これはせいぜい10キログラムの物質麻児湯エネルギーにしか匹敵しない。換言すれば10キログラムの物質を全部エネルギーに変えると大地震ほどのエネルギーが得られることになる」として、エネルギーとしての核反応のすごさを紹介しているのだという。原子爆弾が生まれる以前に、すでに、こういうことを気にしていたことが分かるのだそうです。湯川先生が、宇宙で起こる原子核反応に興味を持ち、アルファ・ベーテ・ガモフからはじまる太陽の起源、宇宙の創生に対して原子核理論から取り組むべきだと考えておられたことはよく知っていましたが、すでに戦前から天体から地上の核反応にも思いを寄せていたことが分かるのです。実際、それを裏づけするように、「岩波講座 現代物理学」のなかで、早川幸男・林忠四郎の「核融合」のなかでは、「天の部」を早川、「地の部」を林が多投しており常に天と地の原子力エネルギーは一体のものとして理解されていたことを物語っているそうです。なるほど、そんなことは当たり前、点で起こることと地で起こることを総合的に理解するという物理学者らしい発想で統一像を描いていたのですね。ですから、素人GHQが見てもわからなかったかもしれませんが、湯川先生は原子力エネルギーの問題を地上でのエネルギー源として自覚していたのではないかと思われるのですね。これは実は私には意外でした。先生は仕方なしに1953年からいきなり始まった原子力発電への導入に伴う「原子力委員会」の委員を引き受けたというより、もっと積極的であったのでは、と思われるので。このあたり、先生がどう考え、そして原子力にどう田向かい合ってこられたかの1つの鍵があるように思います。

それはそうとして、当時のGHQは、日本の科学者から原子力研究の手段を奪い、原子炉を廃棄し、その当時書かれた貴重な論文や資料を全部没収してしまいました。このときの、京都大学の荒克県の様子や、その時学生の1人だった堀田進氏の訴えの文章には、学問を愛する京都の気風が詰め込まれた感銘深いものがあります。政池さんたちは、この堀田氏に会うためにわざわざ愛にいかれたということでした。 

まだまだたくさんのことを話されたのですが、報告としてはこれくらいにして、資料としていただいたパワーポイントをご覧ください。 政池資料(PPTファイル)