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高速気体遠心分離機とウラン濃縮1・・・闇の科学者カーン博士の思い出

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パキスタンの核開発の父アブドゥル・カディール・カーン博士(Abdul Qadeer Khan)をご存じだろうか。A.Q.Kahnと略する。パキスタンの原子爆弾実験を成功させた人物である。また核闇市場を通じて核兵器の製造技術をイラン、リビア、北朝鮮などに売ったとされる人物である。私はカーン博士に二度に渡り接触されたことがある。最初は1985年、ウラン濃縮のための遠心分離機に関して京都大学で、二回目は、日時は忘れたが、オックスフォード大学でミサイル飛翔理論に関してである。

後で述べるのだが、私は1970年代から、京都大学でウラン濃縮のための高速気体遠心分離機の理論的研究を上司の桜井健郎教授とともに行っていた。1985年に東京で「第6回高速回転する気体ワークショップ」が開かれ、私もその開催の一翼を担った。この会議はスエーデンのランダール博士が提唱し、主に高速気体遠心分離機の研究についての情報交換をする会であった。第1回がスエーデンで開かれ、第2回がフランスのカダラッシュ、第3回がローマで開催された。私も桜井先生も第2回、第3回、第6回に参加した。参加者は、最初はスエーデン、英国、フランス、イタリア、日本が中心であったが、後に米国も参加するようになった。

東京での会議が成功裏に終了した後、私は京都大学の研究室に見知らぬパキスタン人の訪問を受けた。彼は若い学生を伴っていた。彼は東京のワークショップの集録をコピーさせてほしいといった。通常、この手の集録は公開が原則である。しかしテーマの微妙性と見知らぬパキスタン人ということもあり、私は断った。そうすると彼は、伴っていた学生を遠心分離機研究のために、京都大学の博士課程に入学させてほしいといった。私は桜井先生には無断で、これも断った。桜井教授も後で了承された。

第二回目の接触は、日時は忘れたのだが、英国のオックスフォード大学で開かれた国際会議のバンケットの時である。例の紳士がにこやかに近づいてきて、ミサイルの飛翔の理論について質問があるといった。私はこの問題には門外漢であったので、近くにいた知人のドイツの教授に紹介した。そのドイツ人も辟易したようである。例の学生はどうなったかと聞くと、無事オックスフォード大学に入学したという。これが私とカーン博士の2度にわたる異常接近の話である。カーン博士は1984年にも日本を訪れ、核開発に必要な機材を日本の会社から調達したといわれている。

カーン博士は1970年にオランダのアルメロでウラン濃縮を手掛けるウレンコ社(URENCO Group)に入社した。ウレンコ社は、ドイツ、イギリス、オランダの3国(トロイカ国と呼ばれた)の作った、遠心分離機の会社である。カーン博士はそこで主任技術者になった。そこでは遠心分離機に関する秘密文書にアクセスすることができた。彼は後に会社を辞めて、ウレンコの技術を使ってパキスタンでウラン濃縮に成功し、それを用いて原爆開発に成功したとされている。さらにその技術を国際的な闇マーケットを通じて、イラン、リビア、北朝鮮などに売ったとされている。アメリカの圧力でパキスタン政府はカーン博士を自宅軟禁したが、最近釈放された。

イランの核開発が最近、国際政治の問題になっている。イランは自国のウラン濃縮を平和的利用の為だと主張し、米国とイスラエルは原爆開発を疑っている。イスラエルは、自分は核兵器を公然の秘密裏に保持しているくせに、イランが核兵器を持つことはけしからんと難癖をつけ、イランのナタンツにある遠心分離機工場を爆撃するプランをひそかに練っている。戦争をしたくてたまらない米国の一部勢力もそれに加担している。イランの遠心分離機の技術のもとは明らかにウレンコのものである。要するに、最近の国際問題の陰にカーン博士がいるのである。

3人カーン

ところが調べてみるとカーンというのは一人ではないのだ。パキスタン原子力委員会(Pakistan Atomic Energy Commision=PAEC)の議長にムニール・アーマド・カーン(Munir Ahmad Kahan, M.A.カーン)という人物がいて、彼はプルトニウム型原爆を開発しようとしていた。それに対してA.Q.カーンはウラン型原爆の開発を当時のブット首相に進言した。さらにややこしいのは、これらの計画を指揮したのはザヒド・アリ・アクバル・カーン准将である。結局、この二つのプロジェクトは平行して行われ、最終的には1998年に両チームはそれぞれウラン型とプルトニウム型原爆の実験に成功した。

A.Q.カーンとM.A.カーン、およびKRLとPAECはお互いに仇敵の関係にあるという。というのも、M.A.カーンはパキスタン原子力委員会の長であり、独自に核開発計画を進めていたところ、オランダから帰国したA.Q.カーンがブット首相に取り入って、カーン研究所(Khan Research Laboratory= KRL)を作ってもらったからだ。カーン研究所は当初ウラン濃縮のみに専念していたが、後にミサイルにも手を出して、それも両組織の競争と争いの元になった。

しかし、良い意味でも悪い意味でもA.Q.カーン博士が世界的に有名になったのだ。

   
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