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蒙古襲来 - 文永の役

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前回は元寇の第一回目である文永の役で、最初に蒙古・高麗軍が対馬を襲った話を、漫画「アンゴルモア 元寇合戦記」全10巻をもとに話した。それによれば対馬勢は壊滅的な打撃を受けた。

今回は蒙古・高麗軍が九州を襲った話をする。それも「アンゴルモア 元寇合戦記 博多編」1, 2, 3巻に基づく部分もあるが、その他の文献調査も加味する。実は漫画の博多編はまだ結末までは至っていない。

私が元寇について高校の日本史などで習ったことは、次のようなものだ。日本の武士は個人戦闘が主体で、戦う前に敵の前で名乗りを上げているうちに、集団戦法の蒙古軍にさんざんやられた。蒙古軍は鉄砲(てつほう)という手投げ爆弾を使用して日本軍にさんざん被害を与えた。日本軍は敗北を重ねて大宰府まで退いた。蒙古軍が夜に船に戻って寝ていたら神風と呼ばれる台風に出会い、多くの船が沈んだ。結局、蒙古軍は日本上陸の一日後には忽然として姿を消した。文永の役における蒙古の日本襲来の目的は、将来の本格的な侵攻に対する威力偵察であった。

しかし、近年の研究では、これらは誤りで、文永の役では日本軍の勝利、第二回目の弘安の役では、日本軍の圧倒的勝利であったことが分かってきた。なぜ誤った解釈が幅を利かせたか。それは文献の読み方の問題がある。とくに「蒙古襲来」という本を書いた服部英雄氏によれば、八幡愚童訓という、神社の書いた記録を信頼しすぎたからだという。八幡愚童訓では、蒙古を撤退させたのは武士の活躍ではなく、神仏の加護によるものだという点を強調している。なぜなら、神社の立場としては加持祈祷のおかげで蒙古を敗北させたと主張して幕府に対して恩賞を要求できるからだ。しかし現代の科学的見地から見れば、神仏の加護など存在しない。日本が勝ったのは、物理的な力、具体的には武士の軍事力なのである。

蒙古・高麗軍の陣容だが総司令官はヒンドゥあるいはクドゥンとよばれるモンゴル人だ。蒙古・漢軍の副将は女真族の劉復亨(りゅうふくこう)、高麗人の洪茶丘(こうちゃきゅう)である。高麗軍の司令官は金方慶(きんほうけい)である。これらの面々は漫画「アンゴルモア」にも登場する。

軍船の数は900隻とされているが、そのなかで外洋を航走できる大型船は300隻で残りは、大型船に積み込まれた小型艇である。本当はもっと少なかったかもしれない。「蒙古襲来」の服部英雄氏によれば大型船は126艘だという。

攻めてきた人数も元の歴史書では15000人、高麗史では蒙古が25000人と高麗が8000人としている。しかし「蒙古襲来」の服部氏は蒙古と漢軍は4000人ほど、高麗は1500人程度としている。確かにその程度でなければ、日本が勝つことは難しかっただろう。

文永の役の起きた日時は文永11年10月5日から20日とされている。しかしこれは旧暦であり、現在の新暦では1274年11月4日から19日のことである。結構晩秋なのだ。11月の終わりに台風は来ないのが普通だ。だから神風とされたものは台風ではなく、単なる寒冷前線であったのだろう。ちなみに先の服部氏は元軍が撤退したのは10月20日ではなく、27日ころだとしている。たった一日で撤退する侵略軍などありえないだろうという。

日本軍は、最初は蒙古軍の上陸を許したが、いろんなところで互角以上に戦った。蒙古軍が撤退した理由は、女真人の副将であった劉復亨(りゅうふくこう)が矢に射られて負傷したこと、戦況が思わしくなく援軍の当てもないこと、攻めてきたのが晩秋であり、冬に入って冬型気圧配置になると北風が吹き、海を渡って帰還するのが困難になるからだ。

また威力偵察という説もたぶんないだろう。大軍を投じたのだから、勝てるなら、そのまま勝ち進んだはずだ。

日本軍の司令官は鎮西西方奉行の少弐資能(しょうにすけよし)、その子供の兄の少弐経資(しょうにつねすけ)、弟の少弐景資(しょうにかげすけ)たちである。最終戦闘の時は弟の少弐景資(かげすけ)が総大将を務め、敵の副将の劉復亨(りゅうふくこう)を矢で射止めて負傷させて、それがもとで元軍は撤退したといわれる。そのほか日本軍には蒙古襲来絵詞で有名な御家人の竹崎季長(たけざきすえなが)、御家人の菊池武房、白石通泰などがいる。総大将少弐景助の手勢は500余騎、ただし徒歩の従士を含めると1500人程度、菊池武房の100余騎300人、白石通泰の100余騎300人などが主要な勢力である。

戦況にはさまざまな説があるが、ほぼ以下のようだ。旧暦の10月19日(新暦11月25日)の夜に蒙古軍は博多の西にある早良郡(さわらぐん)の百道原(ももちはら)に上陸した。そして近くの小高い丘の麁原山(そはらやま)を占領して、そこに本陣を置いた。次にその東にある赤坂山を占領した。現在の福岡城の位置である。ここは古くから警護所がおかれていた防衛拠点である。刀伊の入寇のときも赤坂の警護所をめぐって戦闘が行われた。

日本軍の本隊は博多で待機して、そこで戦おうとしていた。しかし西の赤坂近くに陣を敷いていた菊池武房の軍勢100騎300人が赤坂の松林の中に陣を敷いた元軍を攻撃して、上陸地点の近くの麁原山へと敗走させた。そのことが分かっているのは、先駆けをしようとして移動中の竹崎季長と、勝利して帰還中の菊池武房と遭遇したことが、蒙古襲来絵詞に書いてあるからだ。

麁原山(そはらやま)に向かって敗走中の元軍に対して竹崎季長(すえなが)は、たった5人で、鳥飼汐干潟あたりで部下の止めるのも聞かずに敵に突入した。その時、竹崎季長の馬が元軍の放った矢に当たり、結局季長を含む3人が負傷している。この場面も蒙古襲来絵詞で有名だ。幸いなことにその時に白石通泰率いる100騎300人が到着して元軍に突入したため、元軍は麁原山の陣地へと退いた。

やがて日本軍の本隊も到着して麁原山と赤坂山の中間にある鳥飼汐干潟で激戦が繰り広げられた。その結果、元軍は敗れて百道原まで後退した。日本軍はさらに追撃して百道原の戦いで少弐景資の部下の放った矢が元軍の副司令官劉復亨(りゅうふくこう)に命中した。百道原のさらに西にある姪浜でも日本軍は元軍を破った。鳥飼潟の戦いには日本軍の主力も参加して、日本軍が総力を挙げた一大決戦であった。

元軍はその夜、船の上で司令官たちが相談した結果、劉復亨(りゅうふくこう)が負傷したこと、戦況も思わしくなく、援軍も見込めず、時機を逸すると帰りの航海が難しくなり帰れなくなるので、すぐに撤退することに決めた。そして元軍は10月21日に撤退を始めた。しかしその夜に悪天候に出会い多くの船が座礁した。志賀島で座礁した元の軍船に乗っていた130名の兵士は殺されたり捕虜になったりした。その船の司令官は自殺した。座礁した船の総数は150隻もあった。もっとも先に述べたように「蒙古襲来」の服部英雄氏は元軍の撤退は、もう少し後だろうとしている。いずれにせよ、日本軍の完全な勝利である。

結局、文永の役で元軍の被った人的被害は高麗の資料では13500人にも上るとされている。さらに船のほかに多くの武器も失われた。文永の役のために船や兵士、食糧を供給した高麗は国力を疲弊させた。しかしそもそも日本を攻めるように元の皇帝クビライに勧めたのは、高麗の王である。自業自得といえよう。

元寇の第一回目の文永の役は、九州においては日本軍の勝利であった。従来言われていたように、日本軍は劣勢であったが、神風が吹いて元軍が撤退したのではなく、武士たちの活躍で押し返したのだ。そのあとで暴風が吹いたのだ。その暴風も台風ではなく、寒冷前線であった。もっともそれで元・高麗軍に大きな被害が出たことは変わりがない。 

   
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