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蒙古襲来 - 弘安の役

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前回は元寇の第一回戦であった1274年の文永の役について述べた。そこでは日本は武士団の奮戦により、元・高麗の連合軍を押し返した。それでも元の皇帝のクビライは日本征服をあきらめきれなかった。そしてついに7年後の1291年に元は総力を挙げて日本侵略を開始した。弘安の役である。

前回との違いは中国の南宋軍の参加である。南宋は元の侵略に対して耐えてきたが、ついに文永の役の2年後の1276年に滅亡した。クビライは残された南宋軍を日本侵略に使おうとしたのだ。南宋は元の敵国だから、日本との戦いに勝てばよし、仮に敗れて南宋軍が壊滅しても、元にとっては厄介払いとなるのだ。

今回は、文永の役にも参加した蒙古軍、漢軍、高麗軍を東路軍として、南宋軍中心の江南軍とで共同作戦をしようという計画だ。東路軍の戦力は前回の文永の役と同じく蒙古人のヒンドゥ(クドゥン)と高麗人の洪茶丘が率いる蒙古人、漢人主体の3万人と、高麗人の金方慶ひきいる高麗軍が1万人である。軍船は900艘である。

江南軍は実質的な司令官である范文虎(はんぶんこ)率いる10万人の南宋軍と軍船が4400艘である。もっともこれらの数字は、歴史書に過大に書いてある可能性があり、およその目安だ。ともかく文永の役とは異なり、クビライは今度こそは日本を征服しようとする断固たる決意がうかがわれる陣容だ。

作戦は東路軍と江南軍は別々に出発して、壱岐で落ち合ってから日本を攻めるというものであった。しかし現実は、江南軍の司令官交代などのごたごたで、江南軍の出発が東路軍よりひと月近くも遅れてしまい、東路軍だけがまず日本攻撃を開始した。江南軍はひと月遅れで出発して、壱岐にはいかずに直接に九州の北西部にある平戸島を占領して、そこを補給基地とした。そのあと平戸島の少し東にある鷹島を占領した。そこから大宰府を狙う計画であった。結果論になるが、江南軍は鷹島で台風に見舞われて、多くの船が沈没してボロボロになり、司令官クラスは逃亡した。そして鷹島に殺到した日本軍により江南軍は壊滅的な打撃を受けた。東路軍もそれを見て撤退した。

それではまずは東路軍のほうから見ていこう。前回の文永の役では晩秋に出発したので、冬が近づき、気象条件が悪くなり撤退せざるを得なかった。そこで今回は5月3日に朝鮮半島の南端にある合浦を出港した。そして5月21日に日本世界村に上陸した。この日本世界村がどこかには異説がある。多くの書物は対馬の村だとしている。しかし「蒙古襲来」の著者の服部英雄氏は、それはあり得ないという。そもそも合浦から対馬までは通常、一日で来ることができる。19日もかかるわけがない。また高麗は対馬を日本領とは認めていない。高麗の一部だと主張している。だから高麗の歴史書が対馬の村を日本世界村と書くはずはないという。服部氏によれば日本世界村は、博多湾に浮かぶ島、志賀島(しかのしま)だという。ちなみに志賀島は金印が発見された島として有名だ。

東路軍は博多に上陸を試みたのだが、博多湾岸にはすでに長さが20キロメートルに及ぶ防壁が築かれていた。元寇防塁という石築地である。それは頑強な部分では高さが3メートル、幅は2メートルある石垣である。前回の文永の役で博多の浜から、敵に容易に上陸を許してしまった教訓から、鎌倉幕府は九州の御家人に命じて防壁を作らせたのだ。これは極めて有効であった。馬が飛び越えることができないのである。東路軍はついに防壁を破ることはできなかったのだ。もっとも防壁のない川からは上陸できただろうが、日本軍はそこにも逆茂木を植えて、敵の上陸を阻止した。

東路軍は結局、博多への上陸をあきらめて6月6日に志賀島を占領して、そこを基地とした。軍船は志賀島の周辺に浮かべて江南軍の到着を待つ構えだ。志賀島に立てこもる東路軍に対して、日本軍は海陸から攻撃を行った。実は志賀島は完全な島ではなく海の中道というものでつながっている陸繋島だ。日本軍は連日、志賀島に攻撃を行い、東路軍の副将の洪茶丘はあやうく討ち死にするまで追い詰められたが、何とか難を逃れた。志賀島攻撃には、蒙古襲来絵詞で有名な竹崎季長も参加している。6月9日にも志賀島で激戦が繰り広げられた。そこで東路軍は志賀島を放棄して壱岐に戻り、そこで江南軍を待つことにした。

壱岐に戻った東路軍だが、江南軍は予定の6月15日を過ぎても現れなかった。しかも東路軍内では疫病が蔓延して3000人もの死者を出した。持参した食料も減ってきた。そこで東路軍の指揮官たちは撤退すべきかどうか議論したが、結論はそのまま持ちこたえることになった。しかし6月29日になって日本軍は壱岐に上陸して東路軍を襲い、激しい戦いになった。結局、東路軍は戦局が思わしくないし、江南軍が平戸島に到着したという知らせを受けたので、壱岐を放棄して平戸島に移った。壱岐での戦いは激しいもので、先の鎮西奉行であった少弐資能(すけよし)はその時の傷がもとで死んでいる。少弐資能の息子も戦死している。

7月中旬になり平戸島周辺に停泊していた江南軍は4000人の軍勢をそこに残して守らせ、主力は鷹島に移動した。そこから九州本土に上陸して大宰府を攻撃するつもりであった。鷹島というのは、それなりに大きい島で、たくさんの入り江があり、港がある。江南軍の軍船はその港に停泊していた。7月27日になり、日本軍は鷹島の元軍の船隊に攻撃を行った。

運命の日、7月30日に九州を激しい台風が襲った。それで元軍の多くの船が沈没するなどの被害を被った。そもそも東路軍が出発して3か月、博多に侵入してから2か月の後のことだ。夏の間の3か月も海上にいて、その間に台風が来ないと可能性は少ないだろう。つまりこの台風は幸運の神風などではなく、必然であったのだ。元の資料では4000艘の軍船で残ったのは200艘だという。多分これは誇張でそんなことはないだろう。戦闘のために敗れたのではなく、台風のために負けたのだと言えば、責任が逃れられると思ったのだろう。

もっとも江南軍の指揮官クラスにも大きな被害が出た。江南軍の指揮官たちは撤退するかどうか議論した結果、撤退することにした。そこで無事だった船の将兵を鷹島に降ろしてトップの指揮官たちはその船に乗って逃げかえった。ひどい話だ。

鷹島に残された兵は下級将校を指揮官として、木を切って船を作り、帰還しようとした。しかし日本軍は鷹島への総攻撃を開始した。記録では鷹島に残された10万余の元軍は壊滅して、2万‐3万人が捕虜になった。鷹島掃討戦の激しさを伝える地名がたくさん残っている。首徐(くびのき)、首埼、血埼、血浦、胴代、死浦、地獄谷などなどだ。元史によると「十万の衆、還ることの得るもの三人のみ」という。もっともこれも誇張であろう。実際に帰還できた元軍は1-4割程度とされる。東路軍の帰還者は26989人のうち19397人とされている。

やはり元史によると日本軍は蒙古人、高麗人、漢人の捕虜は殺したが、南宋人は殺さずに奴隷にしたという。南宋とは以前から友好関係にあったからだ。

というわけで元寇の第二回戦の弘安の役は、元軍の大敗北、日本軍の大勝利で終わった。日本の勝利の理由の一つには台風があるが、そもそも夏の3か月も日本を攻めあぐねて海上をうろついたのだから、台風に出くわすのは必然であろう。つまり日本の勝利はやはり武士の頑張りにあったのだ。軍事力の勝利である。こうしてクビライの日本侵略の野望は二度にわたりくじかれたのだが、それ以後もクビライは日本征服の夢を捨てなかった。しかしベトナム侵略の失敗などもあり、結局は日本征服の夢を果たすことなく、死んでしまった。

   
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