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漫画「アンゴルモア 元寇合戦記」

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これは元寇における対馬の戦いを描いた漫画とテレビアニメである。著者はたかぎ七彦氏である。

なぜこれを取り上げるか。私は歴史的な日本の対外戦争について関心がある。日本は明治維新以前には対外戦争はあまり経験がなく、海外に攻め込んだのは神話的な神功皇后(じんぐうこうごう)の対高句麗戦を除けば、大敗を期した白村江の戦いと秀吉の朝鮮出兵である。白村江の戦いについては別に触れた。

攻め込まれたのは、平安時代の刀伊の入寇と、今回の鎌倉時代の蒙古襲来つまり元寇の二度である。刀伊の入寇については別に触れた。刀伊の入寇は外国による侵略というよりは、大規模な海賊の侵入といったものであろう。しかし元寇は刀伊の入寇とは比較にならない大規模な外国による本格的な日本侵略の試みであった。それについて語ると、一度では済まされない。そもそも蒙古襲来は1274年の文永の役と1281年の弘安の役の二度にわたっているので、それぞれについて述べたい。

ところで元寇という言葉だが、もともとは蒙古襲来と呼ばれていた。江戸時代になって元寇と呼ばれはじめ、明治以降はそれで統一された。倭寇という言葉があり、日本の海賊というか武力を備えた貿易商人が朝鮮や中国を荒らしたとされているものだ。それに対して、日本が元に荒らされたので元寇と名付けたわけだ。元寇とは言うが、攻めてきたのは蒙古人だけではなく高麗人つまり朝鮮人、刀伊の入寇で攻めてきた女真族、それに元に征服されてその配下になっていた漢人、つまり中国人である。

私は元寇を語るためにそれについての本を二冊読んだ。「世界史の中の蒙古襲来」宮脇淳子著と「蒙古襲来」服部英雄著である。「世界史の中の蒙古襲来」はタイトル通り、世界史的視点から蒙古襲来を語っていて、日本における戦いの詳細を述べたものではない。服部氏の「蒙古襲来」は文永の役と弘安の役を資料の批判的検証という視点から学術的に解説した本で、なかなか簡単に読める本ではない。

今回は、元寇に関する多くの本でほとんど取り上げられない対馬における戦いについてふれる。というのも漫画「アンゴルモア 元寇合戦記」は対馬の戦いを主題にしているからだ。

ところでいろんな資料を読んでも対馬の戦いに触れた部分はわずかである。上陸してきた千名ほどの元軍に対して、対馬の守護代の宗助国が80数人で応戦したがほとんどが戦死した。島民は多くは殺されたり、奴隷として連れ去られたりした。女は手のひらに穴をあけられて、船の舷側に縛り付けられた。元は対馬の次に壱岐を襲い、そこでも守護代平景隆は100人ほどを率いて応戦したが全滅した。という程度の記述しかない。

私は、対馬は小さな島で、元の大群が上陸して島全体を埋め尽くして住人を皆殺しにしたと思っていた。しかし漫画「アンゴルモア 元寇合戦記」を読んで、私は対馬に関して何も知らないことを思い知らされた。グーグルアースで対馬を見ると、意外に大きく、ほとんどが山で、海岸の一部にのみ人々が住んでいることを知った。これなら元の大群が島々に充満することはないだろう。

実際、対馬は南北に82キロメートル、東西に18キロメートルと細長い。徒歩で行くと南北縦断に5日間、東西の横断に1日かかるとされる。対馬は本来は一つの島であるが中央部に浅茅湾(あそうわん)という西からの大きな切れ込みがあり、実質的に上島と下島の南北の二つの島に分かれている。浅茅湾(あそうわん)のあたりは、小さな島々と入江の入り組んだリアス式海岸になっている。

歴史的にも対馬の中心部として国府がおかれたのは南の下島の東側である。元軍が上陸したのは、国府の裏側に相当する西海岸の小茂田浜(こもだはま)である。その知らせを聞いた対馬守護代の宗助国は、兵を率いて山を越えて小茂田浜に向かった。上陸したのは1000人ほどの高麗兵であった。高麗とは従来から付き合いがあったので、通訳を通して話し合いを持ち掛けたが、敵は矢を射かけてきたので、戦闘になった。結果、宗助国を始めとする対馬勢はほぼ全滅した。生き残った二人の若者が、博多に向けて出港し、大宰府に蒙古襲来を知らせた。

先に述べたような知識は、蒙古の対馬襲来に関して本に書いてあることのほとんどすべてである。私は戦闘の詳細が知りたいと思った。そこで見つけたのが「アンゴルモア 元寇合戦記」という漫画である。対馬編が全10巻ある。そこで私は全部買って読んでみた。漫画であるので、すべてが歴史的事実に基づくものではなく、フィクションである。でも歴史的事実を踏まえて書かれているので、なかなか読みごたえがある。

主人公は鎌倉の御家人の朽井迅三郎(くちいじんざぶろう)、守護代宗助国の娘の輝日(てるひ)、刀伊祓(といはらい)の長嶺判官(ながみねはんがん)たちである。いずれも架空の人物である。

主人公の朽井迅三郎は鎌倉でそれなりの御家人であったが、ある事件に巻き込まれて罪人となり、対馬に島流しになる。漫画の設定では、蒙古襲来が近いことを予想した対馬の守護代の宗助国は、死罪に相当するような罪人を対馬に送って防衛の一助にしてほしいと幕府に願い出ていた。それで罪人が船で対馬に送られてきたというのが話の発端である。

罪人の彼らを迎えたのが守護代の娘の輝日である。彼らに対馬のために戦って死んでほしいという。漫画では輝日は安徳天皇の曾孫(ひまご)という設定である。いったいどういうことか。安徳天皇は、源平の最後の戦いである壇之浦の合戦で、6歳の若さで乳母に抱えられて入水自殺したはずだ。平家物語にはそう書いてある。その安徳天皇に曾孫がいるとはどういうことか? 実は安徳天皇は壇之浦の合戦では死んでいずに、落ち延びたという伝説がある。どこに落ち延びたかというと、鹿児島県の鬼界が島だとか、四国だとかいろいろあるのだ。その一つに対馬に落ち延びたという伝説があり、宗氏の先祖になったという。壇之浦の合戦は1185年のことで、蒙古襲来の文永の役は1274年だから、その間に89年の差がある。漫画では95歳の安徳天皇が生きていて、朽井や輝日と白嶽(しらたけ)の頂上で対面する。白嶽は対馬の霊峰で頂上から浅茅湾(あそうわん)が一望に眺められる。

第三の登場人物が刀伊祓(といばらい)とその指導者の長嶺判官(ながみねはんがん)である。刀伊祓とはなにか。それは防人の子孫である。663年の白村江の戦いに敗れた日本は、唐に攻められることを恐れて、西日本の防衛のために防人(さきもり)の制を敷いた。防人とは主に東日本から集められた兵士で、九州の大宰府や対馬、壱岐の防衛に充てられた。防人は武器や行きかえりの旅費は自前であり、負担がきつかった。また行きは付き添いがいるが、帰りは勝手に帰るので、途中で野垂れ死にする者もいた。そこで防人の中には派遣地に住み着くものも出てきた。漫画では、対馬に住み着いた防人の子孫が刀伊祓になったという設定だ。

ところで刀伊祓の刀伊は1019年に起きた刀伊の入寇の刀伊である。この時に刀伊を追い払ったのは防人ではなく、大宰権帥(だざいのごんのそち)藤原隆家のもとに集まった武士であった。刀伊は対馬も襲い、実際の長嶺判官とその家族を拉致した。長嶺判官は脱出したが、妻子はとらえられた。後に刀伊が高麗の水軍に敗れて、拉致された人たちが救出された。しかし長嶺判官の妻子は皆殺しされていて、叔母だけが生き残ったという話である。漫画では刀伊祓の指導者が長嶺判官というのは、そこからの着想だろう。

刀伊祓は金田城(かねだじょう、かねたのき、かなたのき)を防衛拠点にする。これも興味深い。金田城は白村江の戦いに敗れた日本が、対馬防衛のために667年に作った山城である。朝鮮式の山城で、浅茅湾を見下ろす山の頂上を石垣でひろく囲んだ防衛施設だ。現在も残っていて、観光名所になっている。金田城は予想される唐の攻撃から対馬を守るために作られたので、唐と友好関係を結んだのちは廃止された。しかし明治になって、対馬海峡を防衛するために1901年に金田城跡に砲台が設置された。これも現在は観光名所になっている。

「アンゴルモア 元寇合戦記」は蒙古襲来時の対馬の戦いを描いた全10巻の漫画である。内容はフィクションであるが、安徳天皇、刀伊の入寇、金田城などの歴史的事実をもとにしたフィクションであり、歴史愛好家にはとても興味深い。またご当地巡りをするのも楽しいだろう。はやくコロナが終わって自由に観光できるようになってほしいものだ。ところで「ゴースト・オブ・対馬」という米国製のロールプレイイングゲームが流行っていて、ゲーマーたちの間で対馬が注目を浴びている。海に浮かぶ和多都美神社の鳥居が台風で倒壊したが、その復旧のためのクラウドファンディングに予定以上のお金が集まったそうだ。

   
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