2017年05月30日

「あいんしゅたいん」でがんばろう 12

「理科」と「数物」は違う、「フェルミ問題」活性化を!

坂東理事長が京大の西村和雄教授と懇談した際、数理的能力の教育を理科教育とをごっちゃにせずに取り上げる必要があるという話になったという。私も「理科」と「数物」という課題の立て方が今の日本に一番必要だと言っていたので同感である。私の「数物」の典型例は「フェルミ問題」である。

以下の文章は雑誌「パリテイー」(丸善)2008年10月号に掲載された「シカゴにはピアノの調律師が何人?」という私の文章の再録である。

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拙著「宇宙物理」(岩波書店)にも書いたことだが、エンリコ・フェルミはシカゴ大学での学部学生に物理学の講義をする時に「シカゴにはピアノの調律師が何人いるか計算しなさい」という問題を出したという。この逸話は物理学の大事なポイントを語っていると思う。フェルミの「質問」の佐藤版として「大阪には葬儀屋が何軒あるか?」という問題を講義でだしたこともある。
「物理っておもしろい?」という問いかけにまじめに答えているのかと思われるかも知れない。調律師や葬儀屋の「どこが物理だ?」と。しかし、フェルミという権威に頼るわけではないが、実験、理論、基礎、応用、諸分野のパイオニアである万能物理学者であったフェルミが物理の導入に何故こんなことを藪から棒に言い出したかもぜひ考えて欲しい。そして、シカゴも調律師もあまり我々には“遠い”ので、“やさしく”した大阪の葬儀屋版で、ぜひ問題自体も考えてほしい。とっかかりのない時の苛立ちこそ知の出発点です。

物理は数量化

また私は仲間の科学者に対してもよく「昼は夜の何倍明るいと思う?」という質問をよくしていた。反応が面白いからである。昼間が夜より明るいことは子供でも犬でも猫でも知っている。ところが「何倍」という問いかけに答えられる物理学者は滅多にいない。「自分は物理の専門家だからそんな素人質問に付き合っておれない」ということだろうが、あたかも自分は物理学の世界に住んではいるが、物理的世界には住んでいないといった態度である。
「昼」は「夜」の何倍?と問われて面食らうと専門家らしく「そんなことはフラックスか密度かで違うよ」とかの細かいことに逃げようとする。しかしそんな比較の定義などによる差はせいぜい数倍の差であり、大事なのは桁の差が一万倍か一億倍かということである。また「そんなことは昼とか、夜とか言っても変動しているから一定でないよ」という応答もある。それはもちろん、晴天と曇天で、満月と新月で、どれだけ変動するかも質問内容に織り込み済みである。例えば「十億倍だ」と答えたとしたら直ちに「昼でも夜でも変っているでしょう」と突っ込まれるところである。ともかく専門家らしくあれこれ質問にケチをつけるが、肝心のポイント、大雑把に一万倍か、一億倍か、一兆倍か、の見当がつかないのである。

もともと数字はない

物理学の中だとこんな応答になるわけだが一般の広い人々に「何倍明るいか?」と問えば「何倍とは?」と反問されるであろう。「貴方が一番好き」といわれて「二番目と何倍違う?」などと聞き返して嫌われるように、数字で言えないこともあるから「問いかけ」自体が意味があるとは限らないのである。身長や体重、気温や雨量、に数字がひっついているのは分かるが、明るさに数字がひっついているという感覚がない人はまだおるかもしれない。「身長や体重」の数字化まで問う人はなかろうが、「気温や雨量」が数字だというのが常識になっているのは天気予報で毎日聞くからである。物理学が社会のインフラとして組み込まれるとはそういうことである。そこに物理学という学問の本質をみることができる。現象を数字の世界に写して議論するのが物理学である。ここで重要なのは「自然に数字があるわけではない」ということである。測定で数字化するのである。
にも拘らず物理学はこの数量化の手法で自然や物質を相手に仕事をやってきて大成功し、実績を積み上げてきたのである。いったん数量化すると、知識が正確に伝承できるし、数理的に高級な技術が使えるし、コンピュータにも乗ってくれし、技術的に制御できる。自然を相手に別の手法でやっているサイエンスもあるが大なり小なり物理学の数量化の手法が浸透している。そこに測定器の支えがある。

物質のサイエンスか数量化のサイエンスか

「昼と夜」はいいが、「調律師や葬儀屋」は自然や物質の話しでないから物理ではないというかもしれない。だとするとフェルミが言わんとするのは「数量化という手法」にこそ物理の特徴があると言いたいのかも知れない。そしてこの手法は自然や物質ではバッチリ成功するが、生物や生態、金融や社会システムだと効果は程々なので、いつの間にか物理学の働く場が物質専門に狭められてきたという見方もできるのである。

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「フェルミ問題」の追加情報:

ローレンス・クラウス著(青木訳)「物理学者はマルがお好き」(ハヤカワ文庫)69p
新しい「フェルミ問題」的な概算問題集として、L. Weinstein and J. A. Adam, “guesstimation”, Princeton University Press

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急に「政策」めいてくるが、最近は文科省も「数学・数理科学と他分野の連携・協力の推進に関する調査・検討~第4期科学技術基本計画の検討に向けて~」の企画公募をやっている。(西村さんたちの努力があるのか知らないが)文系・理系問わず、日本の教育の危機は数理を使って論理的な考察・処理をする能力の教育が決定的に不足していると私は考える。学校教育で理科というと「物化生地」となり、「理科教育」重視というと最近は実験重視という流れだけが語られる。確かに実験によって理科が好きになったりする生徒が多いとも思う。私が「数物」という言葉で表現していることはこれら理科全体、さらには経済や政策論議などの基礎でもあるようなリテラシーである。「外国語」がリテラシーであるようなものだ。
「数物」は「数学」と「物理」の合いの子という意味ではない。数でない「モノ」を「数量」で考察に技術といってもよい。ニュートンの「プリンキピア」の表題が示す様にこの手法が力学で威力を発揮し、力学が物質の物理科学で大成功したことが事実である。しかしこの手法はあらゆる分野に様々なかたちでいまや浸透している。コンピュータや情報のサイエンスはそれを加速している。
「数学」はこの意味の「数物」に解消できないし、多様な「物理学」もこの「数物」に解消できない。また「数理」という語感は「モノ離れ」を指向する一段と抽象的側面が強調される。いま教育で問題になっているのはそういう高級な学問的思考ではなく「モノ」を「算数」で扱う手法である。「大阪に葬儀屋が何軒あるか?」的フェルミ問題はものごとを見る視点自体を変えるのである。それこそ「なぞなぞ的」にタダでいくらでも遊ぶことができるのであろう。例えば、バイオ関係で「50キログラム体重の人は50兆個の細胞から成る」という文章があった。「じゃ一個の細胞の体積は?」と発想してみるべきである。こういう癖をつけることが大事である。「フェルミ問題」コンテストをやりましょうか。