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白村江の戦い

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日本の対外戦争の歴史について語る。日本はいつも対外戦争をしていたように思う人はいるかもしれない。たしかに明治維新以降は、わずか150年ほどの間に、日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争と4度の大きな戦争を体験した。そして太平洋戦争では日本は大敗した。

しかし明治維新以前では対外戦争はまれであった。こちらから海外に出兵したのは、神功皇后の三韓征伐という伝説でしられる対朝鮮出兵、それから今回取り上げる白村江の戦い、それと秀吉の朝鮮出兵である。日本が攻められたものとしては、国ではないが大規模な海賊に襲われた刀伊の入寇と蒙古襲来が有名である。

ヨーロッパや中国などの大陸国家の戦争の頻度と激しさは、日本の比ではない。しょっちゅう侵略し、侵略されることをくり返している。その点、大陸国家に比べると日本は極めて平和な国であった。日本で対外戦争が少なかった理由は、地理的に海で隔離されていたことが大きい。昔は海を渡って大軍を送ることが難しかったからだ。

さてここでは、日本史において、第二次大戦の敗北に匹敵する最大の敗北であった白村江の戦いについて話す。ある本では日本史史上最大の敗北と書いてあった。ところでこの白村江の読み方だが私は高校の日本史では「はくすきのえ」と習ったが、根拠ははっきりしていないので「はくそんこう」でもよい。白村江は現在の韓国の西海岸にある川の河口である。

白村江の戦いは7世紀の半ば663年に、当時は倭国といった日本と朝鮮半島にあった百済という国の残党の連合軍、それに対してこれも朝鮮半島にあった新羅と現在の中国にあった唐の連合軍との戦いだ。戦場は先に述べた朝鮮半島の白村江であった。その戦いで日本軍は完敗した。ちなみに百済(くだら)の読み方だが「ひゃくさい」でもよい。新羅(しらぎ)も「しんら」でもよい。ここでは高校で習った通り「くだら」と「しらぎ」で通す。

当時の東アジアの情勢を知らなければ、なぜ白村江の戦いが起きたのか、なぜ日本が負けたのかを知ることはできない。現在の日本を取り巻く諸国は、朝鮮半島には南の韓国と北の北朝鮮がある。中国には中華人民共和国がある。そしてロシアもある。

7世紀当時は、現在のロシアに相当する国は極東にはなかった。朝鮮半島は現在の北朝鮮に相当する場所に高句麗(こうくり)があった。現在の韓国に相当する位置には、その西半分に百済、東半分に新羅があった。現代で例えて見れば、北朝鮮と西韓国、東韓国がある、みたいなものだ。

高句麗は紀元前1世紀ごろにできた国で、668年に唐により滅ぼされた。百済は4世紀前半に始まり、660年に新羅と唐の連合軍により滅ぼされた。白村江の戦いは百済が滅んだ660年の3年後の663年に起きている。

もういちど、まとめると660年に百済は新羅と唐の連合軍により滅亡した。663年に百済の復興をかけて日本と百済連合軍が、新羅と唐の連合軍と白村江で戦い、日本は大敗した。668年には高句麗が唐と新羅の連合軍により滅ぼされた。つまり7世紀は朝鮮半島の激動期であり、日本もそれに巻き込まれたわけだ。

中国の情勢も見ておこう。中国は紀元前206年に前漢ができて統一帝国を作った。漢は紀元後8年に一時滅亡したが、紀元後25年には後漢として復活した。しかし後漢は220年に滅亡し、その後は三國時代などを経て中国は分裂していた。しかし6世紀になり581年に隋が統一国家を作った。その隋もわずか37年後の618年には滅亡して、その年に唐が成立した。つまり7世紀の東アジアは、隋、百済、高句麗が滅亡して、中国では唐が覇権を握り、朝鮮半島では新羅が半島統一を果たした。

現代流で例えれば、東韓国が中国の助けを得て、西韓国を滅ぼした。日本は西韓国と仲が良かったので、西韓国の残党と組んで復活戦をやったが、中国と東韓国の連合軍に大敗した。そして東韓国が韓国となった。中国と韓国は組んで北朝鮮を滅ぼし、韓国が朝鮮半島を統一する。ようするに日本は朝鮮半島にちょっかいを出して、中国と韓国の連合軍に大敗北をした、そんな感じだ。

白村江の戦いが起きた原因は660年の百済の滅亡にある。当時の日本と百済は友好国であり、百済の皇太子が日本に留学していた。百済が滅んだ大きな原因は、当時の百済王であった義慈王がバカで、酒色に溺れるなど乱れきっていたのだ。さらにそれを諌めた忠臣を投獄した。唐はそれを知り、百済を滅ぼすチャンスと考えて、密かに戦争準備をした。そのことを日本に知られないために、当時、唐に滞在していた遣唐使は帰国させなかった。遣唐使を送るぐらいだから日本は唐と敵対関係にあったわけではない。

660年に百済は唐と新羅の連合軍に敗れて滅亡した。敗れた原因も義慈王の馬鹿さ加減にある。忠臣が唐の侵攻を予想して、適切な作戦を提案したが、王も取り巻きもそれを聞かずに、逆に忠臣を殺した。これでは滅びるのも当然だ。

唐の目標は高句麗の征服であり、百済を滅ぼした後、軍は高句麗に向かった。そのすきに、百済の遺臣たちは百済復興運動を起こした。そのため日本に留学している皇太子をたてて、日本に助力を要請した。当時の日本の天皇は女帝の斉明天皇であったが実権を握っていたのは皇太子であった中大兄皇子、のちの天智天皇である。中大兄皇子は百済の遺臣の要請を引き受けて、唐と新羅の連合軍と戦うことにした。

白村江の戦いにおける唐・新羅連合軍は、兵士の数で唐軍13万人、新羅軍5万といわれる。もっともこの数値は盛りすぎているかもしれない。水軍は7000名で船は170隻であったとされる。

日本軍は661年に派遣された第一派が1万人と水軍170隻、662年に派遣された主力軍の第二派が2万7千人、第三派は1万人とされる。百済の皇太子はまた忠臣を殺すという馬鹿げたことをしでかしている。もう百済はどうしようもないのである。

663年に日本の水軍は大挙して白村江の河口に向かった。そこには唐の水軍が待ち構えていた。日本の水軍には作戦というものが存在せず、戦場に到着したものから順に白村江の河口にいる唐の船に攻撃を仕掛けてはやられ、また次の部隊が攻撃してはやられるという、作戦とも言えないずさんな攻撃をした。4度突撃して、4度敗れた。なんでこんなにいい加減な戦いをしたかというと、当時の日本はまだ中央集権国家としては完成しておらず、派遣された軍は地方豪族の寄せ集めであったのだ。だから統一した司令部が存在しなかったのだ。

日本の水軍の1000隻の船のうち、400隻は炎上した。日本軍の兵士や指揮官クラスの地方豪族で、唐の捕虜になったものも多い。のちに帰国を許されたものもいる。

中大兄皇子は白村江の大敗北を知り、次は唐が日本に攻めてくることを懸念して、日本の防衛を固めた。具体的には九州に大宰府という防衛拠点を作った。これがのちの、刀伊の入寇と蒙古襲来の時に生かされた。また唐軍が攻めてくるなら瀬戸内海を通って、当時の難波、現在の大阪にあった首都に攻め込むであろうと想定して、首都を近江、現在の滋賀県の大津市に移転した。

結果的には唐は攻めてこなかった。むしろ、新羅が唐と対立することになる。そこで新羅も唐も日本と友好関係を結ぼうとしたが、日本は唐と友好関係を結んだ。この戦争の敗戦で、地方豪族の力が弱まり、中大兄皇子は結果的には日本を中央集権国家に仕上げることに成功したのである。

朝鮮半島はどうなったか。現代風にいえば韓国と中国が手を組んで北朝鮮を滅ぼした。その後、中国は北朝鮮を自国領にしたが、中国がチベット問題で手こずっている間に、韓国は北朝鮮領を奪って朝鮮統一を成し遂げた。しかし中国に怒られると、韓国は日本に救いを求めたが、それを断られると中国に寝返った、そんな感じである。当時も現在も朝鮮半島情勢は複雑であり、日本にとってそれに関わることは利益がなく、無視するのが良い。

ちなみに私は京都に住んでいるが、山科の御陵(みささぎ)というところに特異点庵と称するオフィスを構えている。御陵とは天皇の墓のことである。どの天皇かというと天智天皇なのだ。その意味でも、私は中大兄皇子、のちの天智天皇に関心を持つのである。

663年に日本はすでに滅んだ百済の復興のために、大軍を朝鮮に派遣して、唐と新羅の連合軍と戦い、徹底的に敗れた。しかし結果として、当時の日本の支配者であった中大兄皇子、のちの天智天皇は日本を中央集権国家に変えて行く契機をえたのである。 

   
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