研究所紹介  

   

活動  

   

情報発信  

   

あいんしゅたいんページ  

   

アレクサンダー大王とロジスティックス

詳細

今回は古代ギリシャの軍事天才であったアレクサンダー大王のペルシャ征服の際のロジスティックスの話をする。ロジスティックスとは軍事用語では兵站という。昔の日本軍なら輜重という難しい字を書く。現代のビジネスシーンでは物流管理のことである。軍事におけるロジスティックスとは食料や兵器の調達、輸送など、軍の維持に必要なさまざまな仕事である。

太平洋戦争で日本軍がロジスティックスを軽視したことが敗北の大きな要因である。一番典型的な例としてはビルマからインドに侵攻したインパール作戦がある。これなど指揮をした牟田口中将がロジスティックスを軽視したために、多くの兵士が戦死ではなく餓死した。食料を持って行かずに現地調達を計画して、それがうまくいかなかったからだ。

なぜ私がアレクサンダー大王に興味を持っているか。実は私は結構、軍事オタクつまりミリタリーオタク、ミリオタなのである。また歴史オタクでもある。それで軍事天才に興味がある。世界史に現れた軍事天才としては、古代ペルシャ帝国を滅ぼしたアレクサンダー大王が筆頭であろう。アレクサンダー大王以外には、ローマと戦ったカルタゴの将軍ハンニバル、ジンギス・カーン、ナポレオンなどがいる。しかしハンニバルもナポレオンも最終的には敗北した。その点、アレクサンダー大王は一度も負けていない。ロジスティックスを全く新しく改善して、巨大なペルシャ帝国を征服して、インドまで行ったのである。

私はオリバー・ストーン監督の映画「アレキサンダー」という2004年のアメリカ映画にも大きく感化されている。ギリシャ軍を率いてはるかアフガニスタンからインドまで遠征した。アフガニスタンのヒンドークシュ山脈を縦断している。

なぜそんなことができたのだ。ミリオタというと兵器とか戦略、戦術に興味を持つものは多いがロジスティックスに興味を持つものは少ない。でも軍事には必須の要素なのだ。私は科学者としてそれに興味を持つわけだ。

当時の歴史的背景を少し解説しておこう。まず古代ペルシャ帝国であるが、正確にはアケメネス朝ペルシャといい、紀元前550にキュロス2世によって作られた。現在のイランである。その版図は最大の時は、西はギリシャに接し、エジプトを領土に納め、東はインドの国境まで広がっていた。

キュロス二2世の跡を継いだダレイオス1世とその子供のクセルクセス1世は紀元前500年と紀元前480年の二度にわたってギリシャ遠征を行ったが、失敗した。このことがのちにアレクサンダーがペルシャ征服をする遠因となっている。

マケドニア王国のアレクサンダー大王はギリシャを統一した後、紀元前333年にイッソスの戦いでダレイオス3世の率いるペルシャ軍に大勝し、その二年後の紀元前331年にガウガメラの戦いでダレイオス3世を最終的にくだし、ペルシャ帝国は崩壊した。

ところでアケメネス朝ペルシャであるが、これは最盛期には当時の世界人口の半分を擁する巨大な帝国であった。全国には36の行政区がおかれその長官としての太守がいた。帝国内は官僚制、国道、駅伝、通貨制度などが整備されていた。その領土は、東は現在のアフガニスタン、インドの付近にまで伸びていた。つまりアレクサンダー大王は全く未知の土地に行ったわけではなく、すでにペルシャ帝国の領土になっていたところに行ったのだ。その際に投降したペルシャ帝国の官僚や駅伝制度を利用している。進軍する前に伝令を送って食料などの準備をさせたのだ。また遠征途中に援軍をマケドニアから送ったり、あるいは妻を送ったりしている。交通網が整備されていたからこそこんなことができたのだろう。そのことを最近知って、長年の謎が解けた。アレクサンダー大王はむやみやたらにインドに行ったのではない。きちんと計画が立てられていたのだ。つまりロジスティックスが完全であったのだ。

アレクサンダー大王の父親のマケドニア王フィリポス2世はマケドニア軍のロジスティックスを大きく改革した。それまでのギリシャの戦争では、お互いが戦う場所を決めておく。そして戦場に兵士だけでなく、その妻子も連れて行く。さらに兵士と妻子の世話をするための奴隷も連れて行く。兵士以外の人間の数の方が多いのだ。さらに荷物を運ぶのが牛車であったので、速度が遅かった。フィリポス2世はそれを改めて、妻子を連れてくることを禁止した。また奴隷の数を騎士の場合は一人、歩兵は10人に一人に減らした。また荷物の運搬に牛をやめて馬とロバにした。その結果、軍隊の機動性が非常に上がった。それが功をそうしてギリシャ統一を成し遂げた。

しかしフィリポス2世は紀元前336年に護衛に暗殺されてしまう。そこでアレクサンダーはわずか20歳で王になった。アレクサンダー大王もロジスティックスとして父の手法を採用した。さらにペルシャ征服ではラクダを導入した。これが非常に役に立った。しかしアジア遠征が10年にも及ぶ長期間になったので、兵士の妻を故郷から連れてくることを許した。また兵士を現地の女性と結婚させたりした。だから後のアレクサンダー軍は家族連れになった。

軍の構成だが、最初はマケドニアの兵士と同盟国の兵士であった。歩兵が3万人、騎兵が5000人である。そのほかギリシャ人傭兵が5000人いた。傭兵の数が少ないのは、金がないからだ。ところが敵のペルシャ軍にもギリシャ人傭兵がたくさんいたのだ。金でどちらにでもつくのだ。アレクサンダーはイッソスの戦いでペルシャに勝って、たくさんの金銀を手に入れた。それをマケドニアの鋳造所に送って貨幣を作り、それでギリシャ人の傭兵を雇うことになる。最終的には6万から10万人の傭兵を雇った。イッソスではダリウス3世の母、妻、娘まで捕虜にした。しかし丁重に扱っている。最終的にはアレクサンダーはその娘と結婚している。ペルシャの大王の正当な後継であることを示すためだ。

このようにしてギリシャで雇った援軍は、ペルシャの船で現在のトルコに運ばれ、そこからは歩いて戦場に向かった。一番長い距離を行った援軍はギリシャからインドまで歩いて行ったのだ。このような行軍は占領地の平定にも役に立った。

戦いで怪我をした兵士や、退役した兵士のために、占領地のあちこちにアレクサンドリアとなづけた都市が作られた。現在まで残っている一番有名な都市はエジプトのアレクサンドリアである。しかしアレクサンドリアという名前の都市はほかにもたくさんあったのだ。一番遠くにあったのは、現在のタジキスタンにあるアレクサンドリア・エスハテというものだ。これはギリシャ人の町としてしばらく残ったが、のちに中国の漢帝国に滅ぼされた。

食料であるが、これは基本的に兵士が背負って運搬した。兵士は武器のほかに小麦粉、炊事用具、寝具などを運ばねばならない。それらを合わせると36キロにもなる。小麦粉は奴隷が運ぶ石臼で挽いてパンにするのだ。パン以外はその地で取れる果物、魚なども食べた。1日の摂取カロリーは3600キロカロリーだという。とても多いが兵士としては当然だろう。

インドまで行った時に部下はもうこれ以上先に行くのは嫌だと断固拒否した。アレクサンダーは仕方なく、そこから帰ることにしたのだが、それは大きな犠牲をともなった。軍を二つに分けて、一つは部下が率いてインド洋を船で帰る。もう一方はアレクサンダー自身が率いて砂漠を横断して近道して帰る。その補給は船をあてにしたのだが、気象条件のため船の出発が遅れて補給できなかった。アレクサンダーの軍は食料と水がなく、動物の3/4が死んだ。また女子供も死んだ。これがアレクサンダーのロジスティッスでの唯一の大失敗であった。アレクサンダー自身はなんとかバビロンまで帰り着いて、そこで急病になり紀元前323年に32歳の若さで亡くなった。 

   
© NPO法人 知的人材ネットワーク・あいんしゅたいん (JEin). All Rights Reserved