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トータルリコール

詳細

 今回のテーマは映画『トータル・リコール』である。この映画は1990年の作品と2012年の作品がある。両作品共、フィリップ・K・ディックの短編小説「追憶売ります」が原作である。1990年の作品は、ポール・バーホーベン監督、アーノルド・シュワルツェネッガー主演で、2012年の作品は、『ダイ・ハード4.0』のレン・ワイズマンが監督を務め、かつてアーノルド・シュワルツェネッガーが演じた主人公を『フライトナイト/恐怖の夜』などのコリン・ファレルが演じている。

あらすじ(2012年版)

容易に記憶を金で手に入れることができるようになった近未来、人類は世界規模の戦争後に、地球の大部分が化学汚染され、英国辺りにあるブリテン連邦とオーストラリア辺りにあるコロニーの二つの地域で生活している。その間は地球中心部を貫くフォールとよばれるエレベータで連結されている。コロニーの労働者は毎日それで通勤している。ある日、工場で働くダグラス(コリン・ファレル)は、記憶を買うために人工記憶センター「リコール」社に出向く。ところが彼はいきなり連邦警察官から攻撃されてしまう。そして自分の知り得なかった戦闘能力に気付き、警官を全員殺す。戸惑いながらも家に帰ると最愛の妻ローリー(ケイト・ベッキンセイル)にいきなり襲われる……。そして最後にブリテン連邦の支配者コーヘイゲンと対決する。

あらすじ(1990年版)

西暦2084年、地球の植民地となっていた火星では、エネルギー鉱山の採掘を仕切るコーヘイゲンとそれに対抗する反乱分子の小競り合いが続いていた。一方、地球に暮らす肉体労働者のダニエル・クエイドは、毎晩行ったこともない火星の夢を見てうなされていた。夢が気になるクエイドは「火星旅行の記憶を売る」というリコール社のサービスを受けることにした。しかし、それをきっかけに今の自分の記憶が植えつけられた偽物であり、本当の自分はコーヘイゲンの片腕の諜報員ハウザーだったと知る。クエイドは真相を知るため火星に旅立つが、真実を隠匿するコーヘイゲンに命を狙われ……。

どこまで本当の世界か

この映画は、どこまでが現実でどこからが夢なのか良く分からない”虚構の世界”を描いている点が大きな特徴だ。どちらの作品でも主人公のダグラス・クエイドはしがない労働者で、記憶を売るというリコール社を訪れる。そして記憶を植えつけられようとしたときに、1990年版ではクエイドが暴れだし、2012年版では警官隊に襲撃される。いずれの場合も記憶はまだ植えつけられていないことになっている。しかし、それも夢かもしれない。この映画の一番面白い点は、話の全体が現実か夢か区別がつかないというところであろう。

トータル・リコールは未来の何を示唆しているか

映画『トータル・リコール』は我々の未来の何を示唆しているのか? 別に紹介するシミュレーション仮説は、じつは我々が現実と思っているこの世界全体が壮大な夢であるという、結構まともな哲学的、科学的議論である。いわば映画「マトリックス」の理論的根拠を与える理論である。しかし映画「トータル・リコール」では、そこまでは行かず、夢か現実かのあいまいさは個人のレベルにとどまっている。

個人とは何か?意識とは何か?

我々は朝起きたときに、今朝の私は昨日の私と同じものだと思っている。その根拠は記憶にある。人間を肉体と、記憶を含む意識、つまり脳の活動に分けると、個人を定義するのは肉体ではなく意識・記憶である。なぜなら肉体を構成する原子・分子は新陳代謝のために、常に入れ替わっているからだ。だから昨年の私と今の私は、物質的には同じものではない。去年の私と今の私の連続性を保証するものは記憶である。つまり記憶は個人のアイデンティティにとってきわめて重要なものだ。だからリコール社のようなビジネスはたとえ可能であるにせよ、いわゆる人間の尊厳を冒涜するものである。記憶を失うということは個人の人格を失うことになる。

未来はディストピア?

2012年版の「トータル・リコール」では、ブリテン連邦というエリート階級の住む地域とコロニーと呼ぶ被支配階級の住む地域に分かれている。映画「エリジウム」では、エリートの住む夢のような宇宙植民島と、被支配階級の住む悲惨な地球が舞台である。2012年版では未来の世界は「ブレードランナー」の影響の濃い中国風の世界である。それは押井守監督の「攻殻機動隊」「イノセンス」でも共通している。いずれの映画も未来をディストピアとして描いている。

支配者と被支配者の闘争

「トータル・リコール」も「エリジウム」も、被支配階級と支配階級の闘争と、被支配階級の最終的な勝利という観点で描かれている。これは典型的に西欧的な世界観である。英国でもフランスでも平民が貴族階級と戦い権力を獲得した。アメリカでは支配者のイギリスにたいしてアメリカの平民が戦いをいどみ、革命に成功した。ロシアも同じである。翻って日本では、天皇が象徴的とはいえ一貫して国家のトップである。革命という考えはない。何気なく見る映画もまさに文化・文明を体現している。

まとめ

この映画はさまざまな見方ができる。個人のアイデンティティとはなにか?それは記憶である。だとすれば、記憶をいじくることは人間のアイデンティティをおもちゃにすることで、きわめて危険である。また近未来を描いたSF映画には、近未来をディストピアとして描くものが多いようだ。そのほうが話になるからであろう。

   
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