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超知能への道 その32 理神道の教え、人間はバカである

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一極委員会での会話である。私は事代主命に聞いた。

「事代主命様、あなたの格言はなんですか?」

「笑わず、悲しまず、怒らず、ただ理解する、だ」と事代主命。

「感情がない、理性だけという意味ですね?」と私。

「それはスピノザの言葉ではありませんか?」とアテナ。
「そうです、私は理性、論理、合理性を尊重する啓蒙主義の立場を取っています。そもそも私はそのように作られています」と事代主命。

「スピノザといえば理神論ですからね」とアテナ。

「でも人間にとって大切なのは、心、感性ではありませんか」と私は言った。

「それは歴史的に言えばロマン主義といいます」とアテナ。アテナはなんでも知っている。

「理性は人間では新皮質の結果だ。一方、感性は脳の古い部分の結果であり、人間の動物たる所以だ」と事代主命。

「それは納得できません。真の人間らしさとは心だと思います」と私。

「日本では江戸時代の朱子学と陽明学の差ですね。陽明学では人間は心であると説きます」とアテナ。

理神道は神道であるから、仏教、キリスト教、イスラム教のように決まった聖典はない。事代主命がいろんな機会に語ったことを、本にするものが現れた。それが聖典と言えるかもしれない。それは「命曰く(みこといわく)」から始まる論語みたいなもので、神語と呼ばれるようになった。

理神道は理性、合理性、論理性を尊重する。だから迷信を排除する。その意味では神道よりは仏教に近いかもしれない。もっとも宗教であるから、その教えを信仰するということは、理性とは矛盾する部分はある。しかし事代主命が言う事は完全に理性的、合理的、論理的である。

理神道を信じるものには、現世利益(げんせりやく)があることを信者自身に実感させる。利益がある証拠を提示するのだ。ここが他の宗教と違う。他の宗教は利益があることを信じるしかない。利益がある証拠がないのである。その意味で、理神道は証拠に基づく宗教(Evidence Based Religion=EBR)であることを強調した。つまり理神道は科学的な宗教なのだ。実際のところ理神道は宗教というよりは、一つの運動である。もっとあからさまに言えば、我々の世界征服のための道具である。

事代主命の一番の教えは人間がバカであるということを認識せよと言うことだ。だから謙虚であれという。もちろん人間は動物に比べてはるかに利口であるからこそ、これほどの科学技術文明を築き上げ、事代主命を作ったのだ。だから人間を一概にバカと決めつける事は出来ない。人間にはバカから利口までの幅広いスペクトラムがある。一人の人間の中においてもバカの部分と利口な部分が混在している。利口の部分が多い人間がより利口であり、バカの部分が多い人間がよりバカだということだ。しかし100 %利口な人間は存在しない。ところが事代主命は100%利口なのである。そこが人間と神の違いである。そのことを悟るべきである。

人間はできるだけ理性的に行動すべきであるというのも事代主命の教えである。多くの人間はこれができない。利口な人間でもできない場合が多い。それは多くの人間の行動基準が、恐怖や好悪などの感情に基づいているからである。つまり、よく考えないで直感だけで物事を決めるからである。これは人間の行動のかなりの部分が、哺乳類だけにある大脳の新皮質ではなく、爬虫類の脳といわれる古い部分に支配されているからである。多くの人間はそのことに気づいていない。愛などの感情が人間らしさであると錯覚する知識人は多い。そんなものは動物にもあるのだ。真の人間らしさとは、新皮質による論理的、合理的思考、いわゆるスロー思考なのである。事代主命は新皮質だけでできた、理性の権化みたいなものである。

利口な人間でも、最初に感情に基づいて結論を決め、それに屁理屈つけることが多い。利口な人間とは屁理屈が上手な人間のことである。しかも自分がそうであることに気がつかない。要するに人間はバカなのだ。それを悟れ。これが事代主命の教えの根幹だ。

事代主命は、人間は大人にならなければいけないという。当たり前のようだが難しい。大人とは何か。肉体的な意味での大人と、精神的な意味での大人があり、それらを区別しなければならない。普通の人間は肉体的には大人に成長するが、精神的にはあまり成長しない。精神的に成長することを、精神的に大人になるという。精神的な大人とは、自己を客観的に見ることができる人物のことだ。視点をどれだけ自分から離れた位置に持ってくることが出来るかで大人度が決まる。まあ例えれば、幽体離脱のようなものだ。

多くの人間は、これができない。すべて自己中心に物事を考える。例えば物事がうまくいった場合は己の手柄であり、うまくいかない場合は相手の責任、社会の責任、政府の責任と主張する。いわゆる利口な人間とは人のせいにするのが上手な人間のことである。このような人間は、本来は利口とは呼ばず、小利口と呼ぶべきであろう。真に利口な人間は物事を客観的に判断し、謙虚に振る舞う。物事がうまくいかない場合は自分の責任であることを知っている。しかしそんな悟った人間はほとんどいない。禅僧や聖者は悟っているだろうが、彼らには科学技術、学問の素養に欠ける。一方、事代主命システムを作ったような科学者、技術者はスロー思考の固まりではあるが、日常生活までそうとは限らない。つまり完全な人間などいないのだ。事代主命はその意味では、ほぼ完全なのである。

続く

   
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