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聖子ちゃんの冒険 その11

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音羽川の冒険

一同は曼殊院天満宮の中の弁天茶屋を出た。曼殊院の北にある駐車場の横を通って、北に続く道を歩いた。そこにはのどかな田舎の風景が展開していた。やがて関西セミナーハウスの横を通り、音羽川に着いた。音羽川の向こうは修学院離宮である。のどかな風景が広がっている。松谷先生が言った。

「この辺りには、紅葉の見所が多いのだよ。いわゆる名所ではないんだが、それでも禅華院とか赤山禅院というところがあって、紅葉の季節になるとそれは見事なものだ」

<禅華院・赤山禅院>

「修学院離宮は広そうですね。入りたいなあ」と聖子ちゃん。
「修学院離宮に入るのは簡単ではない。申し込み制だから。ただ、外国からえらい客が来たときなどは、一緒に入ることが出来る。僕もリフシッツ先生のお供をして入ったことがある」と松谷先生。
「リフシッツ先生って、あのランダウ・リフシッツのリフシッツですか?」と聖子ちゃん。
「そうだ」
「すごいですね。私は今、お友達とゼミでランダウ・リフシッツの物理学の教科書を読んでいるのです」「何の教科書?」「力学、統計力学、場の古典論、流体力学と手当り次第に読むことにしています」
「それはいいね。ランダウの研究室に入るには、理論最小限というのがあって、それをマスターしていないと、研究室に入れてもらえないそうだ。それがあの教科書だそうだ」
「それはすごいですね。あれを全部読んだ人など、近くにはいませんよ。それが最低限だなんて」
「だからランダウの研究室からは、リフシッツを始めとして優秀な弟子がたくさん出ているのだよ」
「あの教科書は難しいけれども、要領を得ていてきれいですね」
「うん、あの教科書はランダウ・リフシッツ著となっているけれども、ほとんどリフシッツ先生が書いたそうだ」
「へえ、じゃあランダウは何をしたのですか?」
「アイデアだそうだ」
「それだけでいいのですか?」
「もちろんアイデアが重要だ。リフシッツ先生が基礎物理学研究所でされた講演は面白かった。ランダウの研究スタイルの紹介だった」
「へえ、興味ありますね、どんなんです?」
「ランダウは自身ではほとんど論文も書かなかったそうだ。アイデアを出して、議論して、論文は弟子が書いたそうだ」
「楽ですね!」
「そうではないだろう。研究にはアイデアが大切だからね。ランダウは論文を書かないから机も使わないし、論文も読まないそうだ」
「論文を読まずに、どうして研究できるのです」
「それはみんな弟子が読むのだ」
「弟子が読んだって、自分で読まなければ分からないじゃないですか」
「いや、ランダウは読みたい論文があると、それを弟子に渡して、弟子に読ませて、そしてゼミで発表させるのだ。そしてソファに座った彼はとことん質問をする。そして理解したら、もういいと言って止めさせるそうだ」
「へえ、わがままですね」
「そこが天才の由縁だろうね」
「ランダウは最後には交通事故でなくなりましたね」
「うん、ソ連政府はランダウをなんとか救おうと手を尽くしたが、ダメだったそうだね」
「森先生も天才ですから、そんなスタイルですか?」
「いや、僕みたいな若造に、かわりに論文を読んでくれる弟子なんていないよ。自分で読むよ」 
「ところで僕がリフシッツ先生を修学院離宮に案内したときに、ちょっとした悶着があってね」と松谷先生。
「へえ、なんです?リフシッツ先生ともめたのですか?」
「いや、門を警備している警官とだ」
「どんな悶着です?」
「警官がリフシッツ先生にパスポートの提示を要求したのだ。すると先生はパスポートのような大事なものは、ホテルにおいてあると言われた。すると警官はそれを取ってこいと言う。しかし修学院離宮に入るには時間制限がある。それを言うと警官は僕に向かって、
「それじゃあ、先生が一人でホテルに行って取ってこられたらどうですか」というのだ。そんな、人の部屋に入って、勝手に荷物を漁って、大事なものを持ってくるわけにはいかないと僕は言った。
「それで?」
「警官はパスポートを持っていない場合は、逮捕する権限があると脅すのだ」
「へえーー、それはえらそうな」
「そこで僕は、この先生はソ連から来られた著名な先生ですよ。そんな人を逮捕したら、外交問題になりますよって、警官を脅したのだよ」
「先生もやりますね、それで結果は」
「警官も諦めて、入れてくれた」
「良かったですね」
「良かったが、官僚の形式主義だね」

音羽川の砂防ダムとロボット化された世界

一同は関西セミナーハウスを過ぎて音羽川に行き当たったところを右手、つまり東の方に曲がった。音羽川にそって上ると砂防ダムがいくつかあった。やがてきらら橋に到着する。まっすぐ行くとしばらくは川沿いに歩くことになり、親水公園に至る。橋を渡って左手の道をとると、きらら坂で比叡山に通じる道である。平安時代末期から鎌倉時代のころ、親鸞上人は比叡山から毎日この道を通って京の都に托鉢に行ったとされている。一同は親水公園の道を取った。やがて川原に降りた。そこらにはバーベキューをした跡が残っていた。一同は、石の上を踏んで流れを横切った。川を渡ってから、坂道を上り、先のきらら坂の道と合流する。しかしそれもやがて二手に分かれて、左は比叡山、右は目的の砂防ダムに通じる道である。

<砂防ダムに通じる道>

しばらくせせらぎにそって歩くとやがて巨大な砂防ダムが現れた。その上から水が滝となって落下している。そのダムの左手にダムの上に上がる急峻な階段がある。ここを登りきるのは少し体力と注意を必要とする。階段には手すりがついているが、それでも危険そうに見えた。

「松谷先生、このダムの下に秘密基地を作りますか?」と高山先生が言った。
「うん、なかなか秘密めかしたいい場所だろう」
「そうですね」
「ここは観光地じゃないから、知る人ぞ知る場所なんだ」
「地元の人しか来ていないようですね」
「修学院離宮の地下をまるまま秘密基地にするのもいいね」と松谷先生。
「どうぞ、お好きなように」

ダムを登りきるとダム湖があると言いたいのだが、砂防ダムであるので、ダムの上は土砂が堆積していて、湖ではなく小さな池になっている。その池に上流から水が流れ込んでいる。その流れにそって木で造った歩道「ボードウオーク」がある。ボードウオークにそって二カ所、テーブルと椅子が作ってあった。一同は一番奥のテーブルに座った。そのさらに奥には、また別の石積みの砂防ダムがあり、滝になっている。地上ではまだ暑かったのだが、ここは涼しい。滝があるからだろうか、木々に囲まれているからだろうか。今は真夏は過ぎ去ったのだが真夏でもここはかなり涼しい。

テーブルを囲んで4脚のベンチがある。一同はそれぞれ別のベンチに座ったのだが、聖子ちゃんは森先生の横に座った。聖子ちゃんは森先生にぴったりくっついて、ぐいぐいと体を押し付けた。お母さんの教えを守っているのである。森先生を押されてたじたじとなり、じりじりとベンチを移動した。聖子ちゃんは、森先生を逃さじと体を押し付けてきたので森先生はとうとうベンチの端に押し込まれてしまった。

「ところで松谷先生、先程の話の続きですが、今後の世界はどうなっていくのでしょうか? 」と高山先生。
「おお、それだ。君たちがやっている研究は基本的に人工知能の研究だ。人工知能、あるいはロボット、ボット、アルゴリズムとも言う。これらは今後の人間の頭脳労働を機械化していくのだ。つまりロボット化するというわけだ」と松谷先生。
「ロボットと言うと鉄腕アトムとかドラえもんみたいなものを想像しますが」と聖子ちゃん。
「うん、もちろんそれらもロボットだ。人間の形をしているから、ヒューマノイド型のロボットという」
「工場にもロボットが使われていますね。あれは鉄腕アトムみたいな格好はしていませんね」
「うん、工場の現場で使われているロボットは人間的な形はしていないし、その必要もない。例えば腕だけのロボットで十分だ」
「そんなロボットに聖子ちゃんという名前がついていたそうですね」
「ははは、そうらしいね」

「そんなロボットが工場に入って、自動車の生産をしたりする。そうするとその分、工場労働者が必要なくなるわけだ」
「でも自動車工場では人が働いていますよ」と聖子ちゃん。
「確かに、現状の工場ではまだまだ人間の労働者が必要だ。だから工場は、日本から労賃の安い、例えば中国なんかに流れていく。しかし中国の労賃もだんだん高くなる。すると今度はベトナムやミャンマーなど、さらに労賃の安いところに工場は移転して行く」
「しかし将来、自動車を作るのが完全にロボット化できたとすれば、どうなります?」
「そのようなロボットを使う方が人間を雇うより安いとすれば、完全にロボット化されるだろうね」
「それじゃあ、工場は日本にあってもいいわけですね」
「うん、その場合は工場は日本に戻ってくるかもしれない。そこで問題になるのは、労賃よりはむしろ電気代などのエネルギー料金と言うことになる」と松谷先生。


「人間は究極的に精密なロボットだと言う話があります。しかし人間と言うロボットを作る作業は、非熟練労働でよいという話です」ときわどいことを言う高山先生。
「その作業は非常に楽しいそうですね」と林君も悪のりした。
「なんのことか分からなーい」とむくれる聖子ちゃん。

とは言いながらも、森先生、高山先生、林君は実はみんな童貞なのだ。もちろ聖子ちゃんも処女である。男たちは単に本とネットによる知識で武装した耳年増なだけだ。

松谷先生が話を少し転じた。
「君たちはBBCの新しいシャーロック・ホームズ・シリーズを見たことがあるかい」
「はい、シャーロックはすごい知能を持つ若い男性として描かれていますね。まるで森先生、高山先生、林先生みたいです。母がシャーロック役のカンバーバッチのファンです」と聖子ちゃん。
「君はシャーロックが好きかい?」
「私はジョン・ワトソンが好きです。ワトソンは優しそうだし、女性にご執心だし。そもそもシャーロックは女性に興味を持っていません。かといってゲイですら無い。そんな男性はダメです」と聖子ちゃん。
「ははは、君は男性は女性に執心すべきだというのかね」
「当然ですよ。それが男です。お母さんが言っていました」
「ははは、このところ若い男には草食系が増えているそうだね」
「だめですよ、草食系なんて」聖子ちゃんは森先生に言っているつもりであったが、高山先生と林君は自分たちに対する当てつけと感じた。
「ははは、ところで僕は『あの女 The Woman』とシャーロックが呼ぶアイリーン・アドラーが好きだ。頭がとてつもなくよい上に、セクシーだし」と松谷先生。
「先生はあの種の女性がいいのですか?」
「うん、すごいじゃない、僕のあこがれだね」

「彼女は初めてシャーロックにあったとき、シャーロックに推理の糸口を与えないために全裸で現れましたね。恥ずかしいわ」
「あのシーンは英国で物議をかもしたそうだ。子供も見ている時間だからね。でも巧みに隠してあるからいいというのがBBCの言い分だ」

<シャーロックとアイリーンの初対面>


「後でシャーロックと兄のマイクロフトは『Virgin』、『Ice Man』と言われていたよ」
「童貞は英語ではヴァージンとよぶのですね」と林君が感心した。

<氷の男、童貞、女王>

「ところでシャーロックとアイリーンのゲームは、シャーロックの勝ちでしたね。アイリーンがシャーロックに惚れてしまったことを暴露されましたね。手を握ったときに脈を測ったり、瞳孔の開きを観察したり。シャーロックこそ氷の男ですわ。森先生にはそんなことしてほしくないなあ」
「ははは、森先生はシャーロック並みの天才だが、十分に女性には弱いと思うよ」
「そうだといいのですが」
「聖子ちゃん、森先生の手を取って君の体を触らせれば、森先生の脈拍は上がりっ放しになるよ」ときわどいことを言う松谷先生。実は先ほどから聖子ちゃんが森先生に体をぐいぐいと押しつけてくるものだから、森先生の脈拍は上がりっぱなしになっているのだ。

シャーロックを見ていない高山先生と林君には、何の話か分からなかった。そこで高山先生が話を元に戻した。
「ところでロボットの話ですが」
「ははは、話がとんでもないところに飛んでしまった。ところで今の議論ではロボット化されるのは肉体労働だけだ。ところがみんなが研究している人工知能は人間の頭脳労働を機械化しようと言うのだ」と松谷先生。
「例えばどんな例があるのです? 」と聖子ちゃん。
「アメリカでは証券取引はほとんどコンピューターが行っている。だからテレビでよく見るような、証券取引所のフロアで取引を行っている人たちがだんだん不要になってきたわけだ。するとその人たちは失業せざるを得ない」と松谷先生。

「なるほどねー、その他にどんなどんな例がありますか? 」と聖子ちゃん。
「うん、アメリカでは裁判のためのデジタルな証拠書類を保存しておかねばならない。電子メールなども含まれる。それらの量は膨大なものになり、例えば最近の企業絡みの裁判で百万件にも及ぶ場合がある。こんなに多くの書類を人間が読むことはほとんど不可能であるか、可能でもコストが極めて高い。そこで電子開示といって、コンピューターが読む技術が発展してきた。膨大な書類をまずコンピューターに読ませて、例えば1,000件程度に絞り込むのだ。そうしてから弁護士がそれを読むことになる。今までは人海戦術で行っていた仕事をコンピューターがやるようになるのだ。すると数億円はかかった人件費がその数10分の1で済むようになるのだ。という事はトップの弁護士を除いて、その他の弁護士が不要になると言う事だ」と松谷先生。
「へぇー、そうなんですか。弁護士というのは高度に知的な仕事だと思いますが、それが自動化されるのですか?」と聖子ちゃん。
「日本でもこのところ弁護士が余っていると聞くが、電子開示の技術が日本にも及べば、弁護士さんはさらに大変になるだろうね」

「先生方は大学の先生ですから、大丈夫ですね」と聖子ちゃん。
「そうでもないんだよ。これもアメリカでは、学生のレポートを採点するアルゴリズムも出始めているのだ」と松谷先生。
「へえー、採点をロボットにさせて大丈夫なんですか?」
「いや、ロボットの方が、人間の先生が採点するよりも客観的だという。人間の先生は採点の始めの頃と終わりの頃では採点基準が違ってしまう。疲れるからだ」
「それは分かります」と高山先生。
「しかしロボットは疲れを知らない。また人間は、長いレポートに良い点を与える傾向があるが、ロボットは内容を重視すると言う。だからより客観的な採点ができるわけだ」と松谷先生。
「アメリカのレポートでは、ネットからのコピー・ペーストが問題になっているそうですね」と高山先生。
「そうだ。しかし人間の先生はそれを見抜くのが困難だ。それがコンピュータにかかると一目瞭然だ。だからレポートの採点は人間よりコンピューターがする方が良いのだ」と松谷先生。
「という事は先生が不要になるということですか? 」と聖子ちゃん。
「いや、多分、当面はそこまではいかないだろう。教育には人間が必要な側面は大きくある」と松谷先生。
「それはよかったですわ。先生方の仕事もなくならなくて」と聖子ちゃん。
「いや我々の仕事は、教育と言うよりはむしろ研究が主体だから、当面は機械に代替される事はないと思う」と松谷先生。

「それはなお良かったですね。他にどんな例があります?」と聖子ちゃん。
「IBMのワトソンと言う人工知能がジェパディというクイズ番組で人間のチャンピオンを破った」と松谷先生。
「それはYouTubeで見ました。でもクイズに勝ったって、社会的な影響はないでしょう」と聖子ちゃん。
「そうではない。ワトソンを開発したIBMは、それを医学に応用しようとしている。どんな優れた医者でも、医学に関するあらゆる最新の情報を全て知っているわけではない。しかしワトソンはそれを知ることができる。だから医者がワトソンを助手として座右に置けば非常にいいわけだ。アフリカなどの僻地のお医者さんでも、最新の医学知識を知ることが出来る。お医者さんが必要なくなると言う事は無いだろうが、お医者さんに必要とされる技量が少なくなる。だから医者を育てる教育に長い時間をかける必要がなくなる。誰でも簡単に医者になれるのだ。という事は医者の価値が下がるということだ」と松谷先生。 

「お医者さんと弁護士さん、学校の先生と言うのは知的な職業の代表ですね。それがロボットに代替されるなんて、大変ですね。それでは芸術家はどうですか? さすがにこれは大丈夫でしょう」と聖子ちゃん。
「これに関しても、例えば音楽の作曲を自動的にするボットが開発されているのだ」と松谷先生。
「へぇー」と一同。
「例えばバッハやートーベンの楽譜をすべてコンピューターに読ませる。するとコンピューターはその作曲家の特徴を抽出してバッハのような曲、ベートーベンのような曲を無数に作曲することができるのだ」と松谷先生。
「へえー、でも、それでは、あまりありがたみがありませんね」と聖子ちゃん。
「確かにそれは言える。金やダイヤモンドでも有り余っていれば貴重ではないように、バッハやベートーベンの曲は数が少ないからこそ貴重なのだ。そこでその作曲ボットを作った研究者は、それを破壊してしまったのだ」と松谷先生。
「なんと・・・!!」と一同。
「確かに壊すのは惜しい気がするが、そうすることによって曲数を制限して価値を上げることができるのだ」と松谷先生。
「なんと・・・!!」と一同。

「医者、弁護士、教師、芸術家、すべて自動化されるなんて。では、それほど高度ではない知的作業はどうなんですか? 」と聖子ちゃん。
「例えばコールセンターを考えてみよう。かかってきた電話の質問は、定型的なものだからコンピューターが答えることができる」と松谷先生。
「それはそうですがクレーム対応はどうなんですか? これは人間がしなければならないでしょう」と高山先生。
「確かに人間が応対するのだが、クレーム電話をかけてくる人の話し方をコンピューターが判断して、その人の性格のタイプを決め、それに適切な人を応対させることによって、満足度を倍加し、電話時間を半分にすることができるのだ。という事は人間の数は半分で良いということになる」と松谷先生。

「そこまでいくと人間に残っている仕事は何なのですか? 」と聖子ちゃん。
「人々の持っている技術と所得の関係にU型カーブと言うものがある。ボットが対応できない仕事はトップの仕事とボトムの仕事だけだ」と松谷先生。
「トップの仕事とはどんな仕事ですか? 」と聖子ちゃん。
「それは真に創造的な仕事だね。君たちのように、ボットを作る仕事はトップの仕事だ。それに会社のトップマネージメントも当然トップの仕事だ」と松谷先生。
「科学者はどうですか? 」と心配になってきた聖子ちゃん。
「うん、科学者は当面はなくならないだろう。しかし科学研究は非常に自動化されるだろう」と松谷先生。

「それではボトムの仕事とはどんな仕事ですか? 」と聖子ちゃん。
「例えば部屋を掃除する仕事とか」
「掃除ロボットはあるのではないですか?」
「アメリカの邸宅のように何もないガランとした部屋ならともかく、日本の部屋のようにゴタゴタした部屋の掃除は、ロボットには出来ない」

「なるほど。その他には?」
「マッサージ、美容師などだ」
「でもそれになるには、学校に行かなければなりませんよね?」
「もちろんこれらの仕事には技量は必要だが、いわゆる知的な仕事ではない」
「でもマッサージ椅子って、ありますよね」
「確かに。しかし人はマッサージ椅子よりは人間に指圧されるの好む。僕なんか、しょっちゅうマッサージしてもらう。その場合、お兄さんより、お姉さんの方がうれしいがね」
「へえー、先生でもそんなことを思うのですか?」と聖子ちゃん。

「男はみんな同じですよ」と高山先生。
「お母さんが、男はみんなバカだって言っていましたが、そういうことですか」と感心する聖子ちゃん。
「だからたとえロボットがその仕事をできても、人間の仕事がなくならない場合はあるのだ」と松谷先生。
「じゃあ、森先生、もし肩が凝ったら、私がマッサージして差し上げますわ」と聖子ちゃん。
「それがいいだろう、もし聖子ちゃんが上手にマッサージできれば、森先生は聖子ちゃんを手放せなくなるはずだ」と松谷先生。
「それなら私、マッサージの学校に行こうかな」と聖子ちゃん。
「そうしたら森先生は君を座右に置くのじゃないかな」
「私、いっそのこと先生のマッサージチェアーになろうかな」
「ははは・・・、江戸川乱歩の『人間椅子』になりたいのかね?」
「なんのことです?」
「椅子職人が、椅子の内部に人間が忍び込めるスペースを作ったのだ。そして椅子を買った官吏の妻を自分の膝の上に座らせて、密かな恋を楽しんだという話だ」
「まあ、怖い、嫌らしい。なんという話しですか」
「だって君が森君のマッサージチェアになりたいと言うからさ」

「また話が脱線しましたね」と高山先生。
「何の話をしていたっけ」
「ボトムの仕事ですが」
「そうそう」
「マクドナルドの店員の応対は、マニュアル通りですから、ロボット的ですね。あれもロボットに置き換えられるはずですね」と高山先生。
「それはそうだが、君はロボットが応対してもいいかね?」
「いや、やはりきれいなお姉さんが応対してくれるのがいいですね」
「男はバカなんだから」と聖子ちゃん。
「マクドナルドの店員に典型的な、低賃金、低スキル、重労働、マニュアル通りの仕事をマックジョブと言って、辞書にも出ているそうだ。安い給料で将来性のない仕事、犬に喰わせるような仕事と定義したそうだ」と松谷先生。
「へえー、マックの経営者はそんなこと言われて平気なのかなあ?」と高山先生。
「いや、マックの経営者は、レストラン産業に働く1200万人の労働者を侮辱するものとして、辞書会社に抗議したが、はねつけられたそうだ」
「ははは・・・」
「経営者としては、マックジョブをロボットにやらせるより、人間にやらせた方が安いと判断すれば、人間に仕事をさせるだろう」

「ところで、トップとボトムの仕事を除いて全てロボットがやるようになるとすれば、人間社会はどのようになるのでしょうね。多くの人が失業するのではありませんか。人々はどうしてお金を稼ぐのですか?」と高山先生。
「その問題に関して私は何冊もの本を読んで研究したのだよ」と松谷先生。
「それで結論は? 」と高山先生。

「人によって意見は違う。ある人は教育が大事だと言う。人間の資質を高めてコンピューターができない仕事をできるようにしろと言うのだ」と松谷先生。
「でもそのような仕事は、ほとんど残っていないのではないですか。人間の大多数が天才科学者や天才芸術家になれるとは思えません」と高山先生。

「うん、僕もそう思う。また別の人は社会を改革して、お金の配分方法を変えるべきだと言う。ロボットを多数導入するということは、生産性が上がるということだ。という事は社会が豊かになるということだ。ところがロボット化することによって、失業が増えて人々が貧しくなるとすればそれは非常な矛盾だ。実際アメリカではGDPは増えている。だが普通の人々は逆に貧しくなっている。というのはほんの一握りの人達がほとんどのお金を取ってしまうからだ」
「そうですよね、それでどうするのです? 」と高山先生。
「税制を改革してお金持ちからはたくさん税金を取り、それを貧しい人に分配すればいいわけだ」と松谷先生。
「しかしアメリカの大統領選挙で共和党は金持ち優遇の提案をしましたよね」と高山先生。
「そうだ、一般の人たちが、共和党の候補が大統領になることによって経済的に得をすることは何もない。にもかかわらずアメリカ人のほぼ半分が共和党の候補に入れたと言う事は、何もわかっていないということだ」と松谷先生。
「この人間の愚かさを支配者やお金持ちは利用するのですね」と高山先生。
「まあ、そういうことになるね。もっとも共和党を支持した人たちは、多くは白人だそうだから、そういう人種的な問題も絡んでいて、単純には言えないがね」と松谷先生。

「その他の提案は? 」と高山先生。
「ある人は人間は貧しい生活に順応すべきだという。貧しくても幸福を見いだすべきだと言うのだ。つまり価値観の転換だ」と松谷先生。
「具体的には? 」と高山先生。
「お金をあまり使わない生活をすることだ。例えば自動車に乗らず、自転車に乗ったり、公共交通機関を使うことだ。旅行はあまりしない、質素な家に住み、質素なものを食べる。特に肉は食べない。資源の無駄遣いだからだ。また空調を使わない、いろいろ考えられる。要するに僕が昔やっていた生活をすればいいだけだ」
「そんな生活で楽しいですか?」
「僕たちは貧しいときでも、それなりの幸せを見出していたのだ」
「なるほど」
「ただ問題は豊かな生活に慣れた君たちのような人々が、貧乏な生活に耐えられるかということだ」と松谷先生。
「僕は普段から貧乏生活ですからそれはいいですが、携帯電話だけは手放せません」と林君。
「携帯電話はある意味、現代文明の象徴だ。つまり豊かさの象徴とも言える」と松谷先生。

「それで松谷先生はどの案に賛成なんですか? 」と高山先生。
「僕はどの案にも賛成ではない」と松谷先生。
「へぇー、それではどうするのですか? 」と高山先生。
「僕は政治というものを人間がするから問題だと思っている」
「そもそも政治って何です?」
「政治とは要するに人々に最大多数の最大幸福を与えることだと僕は思っている。ここで幸福とは何かを定義しなければならないが、その問題は一応置くとしよう。最大幸福と言う事は、幸福と言う目的関数を最大にするということだ」
「なるほど」
「幸福の定義が何であれ、政治ができる事は、法律を決めることと、予算を決めることが主な仕事だ。予算は多数の予算項目からなっている。それぞれの予算項目にどれだけの予算を配分するかというのが政治の大きな仕事の1つだ。仮に予算項目が1万あるとすれば、それは1万次元空間の中の最適値問題になる。こんなことは人間のできる仕事ではない。しかしそれをするのが政治だ」
「共産主義ではそれをやろうとしたのではないですか」と森先生。
「うん、共産主義思想ではそれが人間の英知で可能だと考えたのだ。ソ連の計画経済と言うものがそれに相当する。それは歴史が証明するように失敗した。僕の見解では、共産主義が失敗したのは、このような仕事は人間の能力をはるかに凌駕しているからだと思う」
「なるほど、では資本主義は?」
「資本主義の見解は、最適値問題は市場に任せておけば自動的に解かれると言うものだ」
「それでうまく行くのですか?」
「現状のアメリカがユートピアとはとても思えないね。資本主義は結局は巨視的な最適値を求めたのではなくて、局所的な最適値を求めたのだと思う。つまりお金持ちが最もお金持ちになるという意味での最適解だ」
「なるほどねー」と高山先生。

「その意味で言うと古代ギリシャの哲学者プラトンは哲人政治ということを考えましたね。それが松谷先生の考えに近いですね」と森先生。
「哲人政治とは何ですか? 」と聖子ちゃん。
「プラトンが考える哲人は優れた高潔な哲学者のことだ。優れた子供を見つけて、徹底的に教育するのだ。哲人は私利私欲を持たない、非常に高潔な哲学者なのだ。そのような哲人を育て上げ、政治を一切彼に任せるというのだ」
「それでうまくいくのですか? 」と聖子ちゃん。
「プラトンは実際、哲人政治を実行してみて失敗した。結局、人間にはそのようなことができないからだと僕は思う」と松谷先生。

「それで松谷先生はどうしようと言うのですか? 」と聖子ちゃん。
「これはほとんど夢物語なのかもしれないが、僕の考えだから聞いてくれたまえ。まず、とてつもない高知能のコンピューターを作る。そして政治をそれに任せるのだ」と松谷先生。
「それは一種のスカイネットではありませんか? 」と聖子ちゃん。
「聖子ちゃんはなかなかいいこと言うね、僕もそう思う」と森先生。
「確かにそうだ、人工知能にかりに意識が生じるとして、それに政治を任せるということは、人間の敗北だ。そこで僕の考えは人間とこの超知性を合体させたサイボーグを作ろうというものだ」
「ああ、それで分かりました。それが森先生と聖子ちゃんのイザナギとイザナミですね? 」と高山先生。
「そうだ。僕はそれが森先生と聖子ちゃんであるかどうかは別として、人間と超知性を合体させ、人間の知能を非常に強化し、人間を完全に合理的、理性的なものにしたいと思っている」と松谷先生。

「でも、人間は私のように恋をします。これって、理性じゃないですよね」
「感性だね」
「じゃあ、恋愛に必要な人間の感性って言うのは重要では無いのですか? 」と聖子ちゃん。
「理性と感性の問題は非常に大きな問題だ。それに関して僕は1つの意見を持っているのだが、話し出すとキリがないので、今はこのくらいで止めよう。周りが少し寒くなったし、遅くなってきたからね」と松谷先生。
「そうですね、それではそろそろ山を降りましょうか」と高山先生。

一同は先に来た道を引き返した。松谷先生の提案で、関西セミナーハウスの喫茶室に入った。そこでケーキセットを注文した。セミナーハウスのロビーは、なんか研究者らしい人がうろうろしていた。

「ここは、よく研究会などに使われるのだ」
「大都市の一角にありながら、とてもひなびていて、閑静でいいですね」と森先生。
「ここには、茶室や能楽堂まであるんだ」
「へえー、セミナーハウスにねえ!」
「うん、もとはお金持ちの別邸だったそうだ」
「なるほど」
「僕は、ここでゼミ合宿をしたこともある」
「そうですか、我々もいつかやりませんか?」と森先生。
「いいですね」と高山先生。
「わあーい、私、森先生と一緒の部屋に泊まりたい」と聖子ちゃん。

当惑して赤くなる森先生。

「先生、枕投げをしましょうよ」と聖子ちゃん。

続く

   
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