男の隠れ家
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- 2013年2月09日(土曜)04:30に公開
- 作者: 松田卓也
隠れ家とは
男の隠れ家という言葉がある。これは現在では朝日新聞出版が発行する雑誌の名前になっている。私はこの男の隠れ家という言葉に非常に心が惹かれる。とはいってもその雑誌に興味があるわけではない。
隠れ家とは英語ではhide outという。何か悪漢や盗賊のアジト、ギャングの巣窟といった意味である。日本の小説でいえば池波正太郎の「鬼平犯科帳」に出てくる盗賊の隠れ家を思い出す。盗賊たちは、定期的に押し込み強盗を働くのだが、その間は隠れ家に潜んでいるのである。
私の言う隠れ家とは、このような形のアジト、巣窟という意味ではなく、私一人の居場所という意味での隠れ家である。その意味では隠れ家というよりは庵という方が適切かもしれない。庵とは風流人など浮世離れした者や僧侶が執務に用いる質素な佇まいの小屋のことで、庵室、草庵(そうあん)などとも言う(Wikipedia)。日本でも例えば鴨長明の方丈記にでてくる方丈は庵である。下鴨神社の中にある河合神社に鴨長明の方丈のレプリカが置いてある。鴨長明は晩年、その方丈を京都のあちこちに運んで、そこに住んだという。私もそういった生き方に憧れる。フランス語では庵のことをHermitageといいエルミタージュと発音する。修道士の結ぶ庵がエルミタージュである。ロシアのサンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館はそこから来ているのであろう。
ネットに、ある男性が次のような話を書き込んでいた。階段の下にある小さなトイレを飾って居心地の良い場所にした。そしてそこをエルミタージュと名付けたというのである。男は家庭内での居場所を求めている。書斎を持てればそれがいちばんいいのだが、それが無理な場合は階段の下などに机を置いて、自分の密かな拠点とすることがある。これも男の隠れ家の小規模なものである。
男の隠れ家のルーツはだれもが子どもの頃に作ったことがある秘密基地にある。私も小学生の頃作ったものだ。家の近くに草原があり、そこに一辺が1.5メートル、深さが1メートル程度の穴を掘った。穴の天井には棒を渡して、さらにその上に草の葉で覆いをつけた。穴の側面には暖炉を作りそこで火を燃した。夜になって近所の友達とその中に入りおしゃべりをした。明かりが漏れて巡査に見つからないだろうかなどと話し合った。非常に冒険心をそそり、ワクワクした経験だ。
大学の講義で、秘密基地についてのレポートを書かせたが、結構女の子も作っていたことが分かって意外であった。身近では家の押入れの中とか、マンションの非常階段とか、大規模なものでは持ち山の中に作ったという女の子もいた。
小説に見る男の隠れ家
昔読んだある小説が非常に印象的であった。小説のタイトルも作家の名前も忘れてしまったが、話の筋は次のようなものだ。あるしがないサラリーマンがいた。家庭ではカカア天下で、男はいつも奥さんに怒鳴られ、馬鹿にされていたのである。その男には家庭には居場所がなかった。ある時、会社からの帰りに一駅手前の駅で降りてみた。商店街を歩いていくうちに、 1軒の貸部屋を見つけた。家賃はそれほど高くなく、その男にも奥さんに知られない範囲で出せる額であった。その男は早速その部屋を借りた。そして会社の帰りには、直接家に帰らないで一駅手前で降りて、その部屋にしばらく滞在してから帰るのを常とした。土曜、日曜にもその部屋に行った。奥さんは男が家にいない方が清々するから、男が外出することに対して文句を言わなかった。男はその部屋に少しずつ家財道具を買い揃えていった。会社では上司に怒鳴られ、家庭では奥さんに怒鳴られるその男にとって、その部屋が唯一の安らげる場所だったのだ。男はその隠れ家で何か悪いことをするわけではない。ただ安らげる場所が欲しかったのである。話はたったそれだけである。
1人遊び
私はよく話をするから賑やかなのが好きだと思われているだろう。つまり外向的で人と交わるのが好きだと考えられている。しかし実際はそうでは無い、本当は内向的なのだ。と言っても誰も信じてくれないかもしれないが事実だ。実際のところ、私は1人でいるのが好きなのだ。だから人が群れるコンパや懇親会などは基本的に好きでは無い。コンパの後によくある二次会などには決して私は参加しない。私は1人遊びが好きなのである。
1人で何をするかというと、主に妄想である。何を妄想するかというと、世界征服についてである。それに関しては小説も書いた。タイトルは「悪の秘密結社『猫の爪』による世界征服計画」である。現在は「シミュレーション世界の聖子ちゃんの冒険」を連載している。というようなわけで、私は1人で妄想するための男の隠れ家、あるいは個人的オフィスが欲しいのである。私はそこを秘密研究所と呼ぶことにする。私はマッドサイエンティスト願望があるのだ。
個人的オフィス
私は2006年に神戸大学を定年退官したのだが、その時に一番困ったのはオフィス・スペースがなくなったことである。現役の時には気がつかなかったのだが、 20平方メートルもあるオフィスを借りようとすれば結構高いものになる。現役教員は個人的研究室を持てることのメリットに気がついていない。定年退官して初めてそれが分かったのである。
定年後に退職教員は、自宅に書斎を持っていればそこをオフィスにするであろう。書斎がなければ居間の食卓だ。自分の場合は書斎があったのだが、知らないうちに家内の物でいっぱいになり使えなくなってしまった。仕方がないから居間の食卓を使っていた。しかし食卓であるから食事のたびに物をどけなければならない。それが面倒で仕方がない。
そこで私は個人的にオフィスを借りようとした。よく作家などが自宅とは別に個人的オフィスを構えている。例え自宅にオフィス・スペースがあるとしても、仕事と個人的な生活を分けるためだと思う。そうしないとけじめがつかないのであろう。私は町田康という作家が好きだ。彼は講談社が出版している『本』という雑誌に小説やエッセイを連載している。「真実真正日記」は、とてつもなくナンセンスでバカバカしい笑いに満ちた小説だ。また「猫の足跡」と言う、彼が飼っている猫についてのエッセイも好きだった。現在は「スピンク日記」と言う、犬を主人公にしたエッセイを連載している。その町田康が個人的オフィスについて言及している。そこで小説を書くのだが、同時にたくさんの猫も飼っている。と言うようなわけで私は個人的オフィスに憧れるのである。
そこで私もいろいろ調べてみた。ネットで調べたところ京都の中心街にある貸オフィスでは、 6平米弱で使用料、共益費、税込みで6万円近くもした。いろんな設備が完備していると言ってもこれは高すぎる。机だけを貸すというシステムもあるが、それでも安いものではない。
そこで学生用のマンションなどを調べてみた。場所や条件によって値段は異なるのだが、だいたい1Kで5万円ぐらいであった。家も探してみた。元建築事務所として使っていたという一軒家があった。階下が12帖、二階が16帖で、オフィスとして使うには適当であった。ただし家賃は月に11万円もする。さらにこれに敷金や礼金、光熱費もかかる。ならすと月に20万円くらいになるであろう。とても個人で持つわけにはいかない。名誉教授が集まってお金を出しあって作るバーチャル研究所構想を立てた(「バーチャル研究所の提案・ ・ ・定年退職研究者のために」)。もっともこの構想は後で述べるように、NPO法人[あいんしゅたいん]の付置研究所である基礎科学研究所として実現した。
図書館
図書館も渡り歩いた。家の近くに左京区の図書館がある。そこに行ってみると、老人と子供のたまり場であった。老人はここに来るとまず新聞を読むのである。私も家で新聞を取っていないので読みたいのだが、いつ行っても誰かが読んでいる。また席の数も少なく、必ずしも居心地はよくなかった。そこで岡崎にある府立図書館に行ってみた。ここは平安神宮の近くであり、また隣に国立近代美術館があり、向かいには京都市美術館があるなど、京都市の文化の中心地である。図書館の内部の雰囲気も良い。ただし席の数が少なく、いつもいっぱいなのだ。ちなみに国立近代美術館の中のレストランは雰囲気があってなかなか良い。入館料を払わなくても入れる。
大学の図書館はどうか。神戸大学図書館の入館証はもらっているが、神戸は京都からではいかにも遠い。嘱託講師を務めていた同志社大学の図書館はなかなか立派である。はじめのころは京田辺キャンパスに勤めていたので、そこのラーネッド図書館に行ったが、とても立派である。しかし京田辺キャンパスでは嘱託講師用の部屋も大部屋ではあるが立派であり、また集中できるスペースもあった。だからそれほど図書館のお世話にはならなかった。しかも京田辺は遠い。後に今出川キャンパスに移動になった。こちらの今出川図書館も立派である。ちなみに同志社大学図書館は同志社大学関係者でなくても地域利用者として利用できるシステムがある。
京都大学の図書館は卒業生に対して入館証を交付することを知り、それをもらっていってみた(ただし本の貸し出しはできないのが残念である)。ここも立派である。大学図書館の良いところは、雰囲気である。図書館に来ようという学生は、休息用のソファで寝ている学生を除けば、勉強をしに来ているので、雰囲気がピンと張りつめているのである。周りが勉強しているのに、自分だけ、だらけた気でいることはできない。集中して読書するしかない。その意味で私は大学図書館が好きである。もっとも試験の時期にはいっぱいになり、席を探すことが困難であるのでだめだ。大学図書館の良いところは、近くに生協の食堂があることだ。生協食堂は味にこだわらなければ、良質な安いものが提供されるので非常に良い。
京都府立植物園
京都府立植物園は賀茂川沿いにある広大な植物園である。家から206番のバスに乗り、植物園前で降りる。賀茂川沿いを歩いて入口まで行くことができる。その道は半木の道(なからぎのみち)といって、よい散歩道になっている。桜のころは大勢の花見客でにぎわう。この辺りは京都の典型的な景色として、テレビドラマでもよく使われる場所である。植物園も花見のころには観光客でにぎわう。私は京都府立植物園に行ってみた。入園料は200円なのだが、60歳以上は無料なのである。だから入園者は主として老人、保育園・幼稚園の子供、それに観光客である。
園内にはたくさんのベンチがある。ここに座って仕事ができないかと考えてみた。いろんなベンチを調べたが、多くは日の当たるところにある。冬にはそのほうがよいかもしれないが、冬に戸外はやはり寒い。いっぽう夏は暑すぎる。日陰にあるベンチを探してみたら、いくつか都合のよいものがあった。林の中の小道に沿ってひっそりと設置された二脚のベンチがあり、そこがお気に入りになった。木の下なので夏の暑い日も結構涼しく感じられる。しかし誰も思いは同じなようで、けっこう先客がいることが多い。
冬は寒くて戸外に長時間いることはできない。入口を入ったところに休憩所があり、二階にはレストランがある。また運動広場の横にもレストランがあり、こちらのほうが安くて手軽である。夏はベランダで、冬は室内で仕事をすることができる。そこにノートパソコンを持ち込み、仕事をしてみた。ネットのつながりがあまりよくない。電波の状態を調べると、植物園の中心部より周辺部のほうが、電波状態が良いことが分かった。道に近いからである。植物園の奥のほうで、園内としては辺鄙なところと思える場所のほうが、意外と電波状態がよくて驚いたが、地図で見ると道路のそばであった。
秘密研究所
私の男の隠れ場を求める旅は、ひょんなことから解決がついた。私の所属するNPO法人「あいんしゅたいん」が京都大学のある研究室と共同研究することになり、その研究室の一部をお借りすることができたのである。我々はそこに「あいんしゅたいん」付置「基礎科学研究所」というバーチャル研究所を設置した。
その部屋は本来、可視化実験室として科学的可視化の実験に使われていたのだが、別の研究室の手当てがついて、助教や院生の人たちは引っ越していったのだ。その後をお借りすることができたのである。共同研究費は支払うが、その一部は大学に光熱費のために吸い上げられ、残りは返していただいた。家賃は取るべきでないという研究室の教授の配慮である。
理事長と私は、その先生の講義の一環をお手伝いしたり、あるいはその先生が主宰する学生のための模擬国際会議のお手伝いをしたりもした。また京都大学理学部と共催で、理学部のセミナーハウスをお借りして、小学生のための親子理科実験教室も開催した。それは非常な人気を呼び、京都大学の宣伝になったと思っている。中にはわざわざ九州からやってくる小学生の親子もいた。みんな京都大学に憧れているので、この子たちの中から、将来、京都大学に入学して、さらに科学者になるものも現れることを期待している。
その可視化実験室は元の大型計算機センター、現在の情報メディアセンター北館の地下室にある。この建物は私が大学院博士課程の最終年度の1969年にできたものだ。初代のコンピューター選定委員長には私の指導教授の林忠四郎先生がなられた。私が大学院を終え、京都大学工学部航空工学教室の助手、助教授になったとき、このセンターを愛用したものであった。 1985年に富士通のスーパーコンピューターVP 100が導入され、それは後にVP 200、VP 400 とバージョンアップされた。私が1992年に神戸大学に異動になるまでこのスーパーコンピューターを愛用したものである。その間、大型計算機センターの利用者委員をしていた。私は、当時は一階以上を使っていたのであり、地階に入る事はめったになかった。
私のいた地下は、昔はスーパーコンピューターが置かれていた場所だ。現在スーパーコンピューターは別の建物にある。この地下室に来た人はだれも驚く。地下に降りて暗い通路を通り、 PCB汚染物保管庫の手前で曲り、廃棄物保管庫の中を通り、実験室にたどり着くのである。可視化実験室はPCB汚染物保管庫と隣りあっているのだ。そこはもともとボイラー室であった。その名残の監視員の部屋がある。だから、天井にはたくさんの配管と配線が並んでいる。私はここを密かに秘密研究所と名付けた。いかにもそれらしいのである。この研究所には国内外の多くの研究者が訪れた。その中には結構な大物も含まれていた。みなさん一様に秘密研究所の秘密めかした様子に感心したようだ。
この研究室をお借りできるのは、耐震工事が始まるまでという約束であった。私たちは耐震工事が始まらないことを願っていたのだが、残念ながら2013年にそれは始まることになった。というわけで我々は2013年1月中にそこを退去した。軌道に乗ってきた「あいんしゅたいん」の活動をこれで止めるのはいかにも惜しい。坂東理事長は私財を投じて京都大学近くの民家を買って、そこを「あいんしゅたいん」の新しいオフィスにした。そこでは今後も「あいんしゅたいん」の活動と、基礎科学研究所の活動が行われる。
特異点庵
私個人は、そのオフィスとは別に個人的に家を借りた。なぜ家を借りることができたかというと、知り合いが持ち家を非常に安く貸してくれたからである。その家は京都の山科(やましな)にある。地下鉄東西線の御陵(みささぎ)の駅の近くである。そこを御陵と呼ぶのは天智天皇の御陵があるからだ。家の西には山が迫っており、その山の上には京都大学の花山(かさん)天文台がある。また阿含宗(あごんしゅう)のお寺とその星祭りに使う広場もある。結構神秘的な山である。その家は大石道の途中にある。その道を大石道と呼ぶのは、大石内蔵助が隠棲した場所に通じる道だからなのであろう。
家は小さな2階建ての民家である。その間取りは一階、二階とも6畳、4畳半、4畳半である。そのうちの4畳半が洋間であり残りは和室である。階下の洋間の4畳半と和室の4畳半はつながっていて9畳の空間になっている。私はそこに机と椅子、コンピューターを導入して研究室にした。週に1度昔の学生さんを集めて秘密研究会を行っている。秘密研究会といっても怪しげなことをしているわけではなく、現在は宇宙における降着流のホイル・リットルトン方程式の解法の研究を行っている。
というようなわけで、私の男の隠れ家探しの旅は一応の解決を見たわけだ。しかし今後、大学内でレンタルスペースが空けば、そこを借りることも考えられ、これからも男の隠れ家探しは続くであろう。