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アレクサンダー大王の東方遠征

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以前に古代ギリシャ、正確にはマケドニアのアレクサンダー大王のロジスティックス、つまり兵站あるいは物流管理について話をした。アレクサンダー大王は歴史上もっとも傑出した軍事指導者である。何度も戦って一度も負けたことがない。現在の世界でも軍事を教える学校では、かならず教育に取り入れられるという、その戦略、戦術、ロジスティックスは考え抜かれたものである。ロジスティックスについてはすでに述べた。戦術については別の機会で取り上げたい。

今回はアレクサンダー大王の簡単な歴史について話す。アレクサンダー大王の東方遠征とその後継者たちの活動は古代ギリシャ文明と古代オリエント文明を融合してヘレニズム文明を作り上げた。さらにアケメネス朝ペルシャ帝国の最東端のインド近くまで行き、ヨーロッパ社会とインド社会が出会った。

アレクサンダーが征服の途中で20ものアレクサンドリアと名付けられた都市を建設した。その最東北端に位置するアレクサンドリア・エスハテは後には大宛となり中国と繋がるきっかけとなった。現代の中国が一帯一路計画で東と西を結ぼうとしている。紀元前に漢の武帝が張騫を西域に派遣してシルクロードを確立したことに繋がる。ところがそれ以前にギリシャ人は西域に来ていたのである。そしてギリシャ人と中国人は紀元前104年に大宛で衝突した。結果は中国の大勝であった。ギリシャ文明に始まるヨーロッパ文明とその後継者としての米国、そして漢帝国の末裔である現代中国。現在の米中覇権闘争は、すでに紀元前に始まっているのである。

アレクサンダー大王の生涯については2004年のオリバー・ストーン監督のハリウッド映画「アレキサンダー」に詳しい。この映画は史実をほぼ正確に描いている。アレクサンダーにはコリン・ファレル、母のオリンピアスはアンジェリーナ・ジョリーが演じている。

アレクサンダー大王は紀元前356年にギリシャの北にあるマケドニア王国の王子として生まれた。父はマケドニア王のフィリポス2世である。父の軍事的才能もなかなかのもので、戦術の改革を行い、ギリシャを統一した。

アレクサンダー大王の教育に関して特筆すべきことは、歴史的に見て最高の知性の一人であるアリストテレスを家庭教師としたことだ。父親の計らいである。現在ならアインシュタインを家庭教師にするようなものだ。アレクサンダーという軍事天才、アリストテレスという哲学の天才、その二人が合間見えたのだ。その時にともに学んだ学友たちが、後にアレクサンダー大王を支える将軍たちになっていく。アレクサンダーは遠征の途中からも、いろんな珍しい動物や植物をアリストテレスに送り、アリストテレスもアレクサンダーのために本を書き送った。

紀元前336年、アレクサンダーが20歳の時に父親が暗殺されて、アレクサンダーはマケドニア王になる。父の死で混乱に陥ったマケドニアをまとめ、ギリシャ全体を征服した。

アレクサンダーは紀元前334年にペルシャ帝国征服の旅に出る。ギリシャとペルシャが敵対関係になったのは、ペルシャがそれまで二度にわたりギリシャに遠征軍を送りギリシャを征服しようとして失敗したことに起因する。有名なマラトンの戦いはその時のことだ。ギリシャ軍の勝利を伝えるために伝令が42キロメートルを走ったという故事が、現在のマラソン競技の源流である。ペルシャはその後も、ギリシャに干渉した。それやこれやでギリシャとペルシャは因縁の敵対関係にあったのだ。

まず紀元前334年に現在のトルコにあるペルシャ領にわたり、そこを納める太守のミトリダテスとグラニコス川で対決した。マケドニア軍38,000人、ペルシャ軍4万で互角である。その戦いでアレクサンダーは軍の先頭に立ち、馬に乗って突進して投げ槍でミトリダテスを倒した。これでアレクサンダーのカリスマ性が上がった。普通、軍の指揮官は先頭に立たないものだが、アレクサンダーはつねに先頭に立ち、何度か負傷している。

翌年の紀元前333年にアレクサンダーはペルシャ帝国の王の王であるダレイオス3世とイッソスで対戦した。ギリシャ側は4万人、ペルシャ側は10万人である。古代の文献ではペルシャ側は25万人から60万人と言われている。しかしそんなにたくさんの兵はロジスティックスの点で無理であろうというのが、現在の見方だ。ペルシャ側は1万のギリシャ傭兵を抱えており、マケドニアと同じファランクス、歩兵密集隊形を採用していた。戦いの最中、ペルシャ側が不利になるとダレイオス大王は逃亡した。それをきっかけにペルシャ軍は崩壊して、マケドニア軍の大勝利となった。この戦いでダレイオス3世の母、妻、娘はアレクサンダーの捕虜となった。アレクサンダーは彼らを丁重に扱い、後にダレイオスの娘と結婚している。ダレイオスはこの敗北で、ペルシャ帝国の半分をアレクサンダーに譲るという条件で和平を求めたが、アレクサンダーは受け入れなかった。

アレクサンダーは次の年、紀元前332年にエジプトに侵攻した。エジプトはその11年前の紀元前343年にペルシャのアルタクセルクセス3世によって征服されたばかりであったので、アレクサンダーを解放者として迎え、彼をエジプト王のファラオにした。後にアレクサンダーの死後、エジプトはアレクサンダーの将軍の一人であったプトレマイオスの支配下に入り、プトレマイオス朝となった。

映画「アレキサンダー」の冒頭場面は、アンソニー・ホプキンス扮するエジプト王プトレマイオスの回想場面から始まる。プトレマイオス朝最後の女王があの有名なクレオパトラである。つまりローマ帝国に滅ぼされたエジプト王国の最後の女王はギリシャ人であったのだ。

次の年、紀元前331年にアレクサンダー率いるマケドニア軍4万7千人は、チグリス川上流のガウガメラで、ダレイオス3世率いる、20万とも30万とも言われるペルシャ軍と対峙して、大勝した。ペルシャ軍はこの戦いで馬に引かせた戦車や象を使ったが、結局は役に立たなかった。この戦いでもダレイオス3世は戦況が不利になると逃亡を図ったので、ペルシャ軍は総崩れとなった。

その後はマケドニア軍のやりたい放題で、まずペルシャ帝国の大都市バビロンと首都のスーサを占領した。さらに儀礼的首都であるペルセポリスを徹底的に破壊した。ダレイオス3世は逃亡したが、王族で側近であったベッソスに殺されて、これでペルシャ帝国は滅びた。アレクサンダーはダレイオス3世の遺骸を丁寧に埋葬した。そしてベッソスを滅ぼした。

その後、アレクサンダーは中央アジアに軍を進める。紀元前328年から327年まで、ソグディアナとバクトリアに軍を進めた。そしてその地方の支配者の娘であるロクサネと結婚した。ヨーロッパ人とアジア人の結婚は、部下のマケドニア人たちには不評であったが、アレクサンダーは後に部下にペルシャの女性と結婚するように勧めている。ちなみに部下によれば、ロクサネは絶世の美人であり、後に第二の妻になったダレイオス3世の娘が、世界で最も美しいのだそうだ。この期間に、長年の戦いの旅に疲れた部下たちの反乱が続いた。

それでもアレクサンダーは軍を東に進めて、インドに侵入して、そこでインドの王たちと激しい戦いを行なって、辛勝している。紀元前326年にアレクサンダーはさらにインドの中心部まで進軍しようとしたが、部下たちはいうことを聞かなくなり、ついにそこで引き返すことにした。

この帰還の旅は大変で、海を通って戻った軍は無事に帰還したが、アレクサンダー自身が率いる軍は砂漠地帯を横断して、多くの被害を出している。アレクサンダーは紀元前324年にスーサに帰還した。そして次の年の323年にアレクサンダーはバビロンで急病で亡くなった。32歳であった。 

   
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