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日本の原爆開発計画

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今回のテーマは「日本の原爆開発計画」である。それもあまり知られていない、京都大学理学部の荒勝文策教授によるF研究というものだ。今回はその話をする。

日本は1945年8月に広島と長崎に原子爆弾を投下されて、敗戦を迎えた。これは日米の圧倒的な科学技術力と工業力の差の一つの象徴であった。しかし日本でも原子爆弾を作ろうという計画があったことはよく知られている。東京の理化学研究所の仁科芳雄博士によるニ号計画と呼ばれるものであった。結果的には、ウランの分離に成功せず、計画は失敗に終わった。ウラン濃縮のために作った分離棟が空襲でやけてしまい、どうしようもなくなったのである。

仁科博士の計画は陸軍がバックについていた。それとは別に海軍は京都大学理学部物理学教室の荒勝文策教授に原爆研究を委託していた。それが今回のテーマである。ちなみに陸軍と海軍は対抗意識が強いことで知られている。

私は京都大学理学部物理学教室の卒業である。その大学院博士課程で天体核物理学の研究、つまり宇宙の研究をして博士号を取った。その意味で荒勝先生ははるかな先輩にあたる。

私の先輩に京都大学理学部物理学教室で長年、原子核物理学の教授を務められた政池明先生がおられる。政池先生は米国の資料を使って「荒勝文策と原子核物理学の黎明」という大部な本を書かれた。これは日本の戦時中の原爆研究に関する歴史書である。それを書かれる前に私は先生から個人的にお話を伺っていた。

今回このテーマを取り上げる一番大きな理由は荒勝教授がウランの同位体の分離に遠心分離機を選んだことにある。実は私は1970年代にウラン濃縮のための遠心分離機の基礎理論の研究をしていたのだ。それで遠心分離機の回転速度に関して、政池先生に自分の意見を述べたことがある。というのも荒勝教授が、円筒状の遠心分離機の回転速度を1分間に10万回転としているが、その根拠を私なりに計算してみた。

さらに奇遇であるが、私の大学院修士課程での指導教官であった小林稔教授がF研究に参加していたことがある。それやこれやで、私は京都大学における戦時中の原爆計画にいたく興味をそそられた。

まず予備知識から始める。原爆や原子炉はウランを燃料としている。ウランにはウラン235とウラン238という重さの違う同位体が存在している。このなかで燃料となるのは、基本的にウラン235である。ところが自然から掘り出した状態のウランにはウラン235は0.7%しか含まれていない。このままでは普通は原子炉の燃料にならない。もちろん原爆にはならない。

現在、日本を含む多くの国で使われている原子炉は水を減速材として使い、それを軽水炉という。軽水炉の燃料はウラン235を3%程度に濃縮したものだ。ちなみに原爆にするには、濃縮度は最低でも30%程度、理想的には90%程度にする必要があり、原子炉燃料と原爆の材料は非常に異なる。

わずか0.7%しかないウラン235を3%とか、さらには90%にするのをウラン濃縮という。ウラン濃縮を行うにはさまざまな方法がある。ガス拡散法、遠心分離法、熱拡散法などだ。アメリカはガス拡散法を用い、その後、核大国になった英国、フランス、中国もガス拡散法を採用した。ソ連は遠心分離法だ。仁科博士は熱拡散法を用いた。ちなみに現在の日本は遠心分離法である。北朝鮮もそうだ。

ウラン濃縮をするためにはウランを六フッ化ウランにする必要がある。そのためにフッ素ガスが必要だ。昨今話題になっている日本から韓国に輸出した高純度のフッ化水素が北朝鮮に横流しされたのではないかという噂がある。しかしそれはないだろう。だって日本でもアメリカでも70年以上も昔に、ウラン濃縮のためのフッ化水素を作っていたのだ。それが高純度であるとはとても考えにくい。高純度でないフッ化水素なら韓国でも中国でも、どこでも作れる。原爆作りにはそれで良いのだ。

荒勝教授は1890年に現在の姫路市で生まれた。荒勝は師範学校を出てしばらく教員をした後、1915年に京都帝国大学に入学した。卒業後、荒勝はドイツ、スイス、英国に長期間滞在して原子核物理学の研究を行なった。そして帰国後、台湾の台北帝国大学の教授になり、コッククロフト・ウォルトン型の加速器を東洋で初めて作り、原子核研究を行なった。そして1936年に京都帝国大学に転任した。

さて原爆の話だが、戦争が始まる直前までに原子核物理学の研究は大いに進んでいた。ところが1939年にヨーロッパで第二次大戦が始まると情報は絶たれた。それでもドイツの「超爆裂性原子U235」という論文が日本に伝えられて、米国が原爆開発に乗り出したらしいことがわかった。それで日本でも研究を始めようということで、陸軍は理化学研究所の仁科博士に依頼し、海軍は遅れて京大の荒勝教授に依頼したのだ。

しかし時期が遅すぎる。海軍が荒勝に研究を依頼してきたのは1944年、つまり昭和19年である。太平洋戦争が始まったのは昭和16年のくれ、敗戦は昭和20年つまり1945年である。敗戦の一年前の昭和19年9月に大阪で海軍と京大の初の非公式会合が持たれた。その時にできた計画では、研究計画Fの第一次終了は昭和20年(1945年)10月、第二次終了は昭和21年10月である。今から見ればどちらも終戦後なのだ。

昭和20年(1945年)7月21日に、本格的な会合が琵琶湖畔にある琵琶湖ホテルで持たれた。終戦まで一月もないのだ。間に合うはずがない。その時の会議の参加者は荒勝教授以外にも湯川秀樹教授、私のもとの指導教官の小林稔教授、名古屋大学の坂田昌一教授など、そうそうたるメンバーである。戦時中としては立派なご馳走をいただいたそうだが、その会議から1月も経たないうちに、原爆が投下されて、終戦となった。

荒勝たちは原爆が投下された広島を調査して、それが原子爆弾であることを確認した。日本では長岡半太郎のような学界の大物は、米国といえども原爆を作ることはできないと主張していた。

終戦後、米軍が駐留してきて理研、京大、阪大のサイクロトロンを破壊した。そのため、その後の日本の原子核研究は大きく遅れることとなった。また荒勝教授の研究ノートを全て押収した。しかしこのことが逆に、のちに政池先生が米国で荒勝ノートを発見するきっかけとなったのだ。

ちなみに日本が原爆を作ることなど絶対にできなかったはずだ。さまざまなデータがある。そもそも日本にはウランがない。ドイツに1トンのウラン鉱の調達を依頼したが、それを運ぶ潜水艦は、一隻は撃沈され、もう一隻は終戦のために拿捕された。ドイツへの依頼電報はアメリカに傍聴されていたのだ。

日本は1945年に広島と長崎に原子爆弾を投下されて敗北した。アメリカでは膨大な予算と人員を使ってマンハッタン計画で原爆を開発した。日本でも小規模な原爆開発の計画はあった。理化学研究所の仁科博士によるニ号研究と、京大の荒勝文策教授によるF研究である。どちらも失敗に終わった。私は荒勝の採用した遠心分離法の専門家でもあるので、この歴史は興味深い。

   
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