2024年04月19日

 

2017年度第2回定期勉強会(サロン・ド・科学の探索 2017年第8回)報告

1.概 要

日  時:2017年8月6日(日) 13:00~17:10
場  所:京都大学理学研究科セミナーハウス
話題提供:池田香代子(ドイツ文学翻訳家・口承文芸研究家)
     松本春野(絵本作家・イラストレーター) 
     角山雄一(京都大学環境安全保健機構 放射性同位元素総合センター 助教)
話  題:福島事故から市民運動が学んだこと
     絵本を通じて福島の人たちに学んだこと
     放射線測定チームの取り組みについて

2.参加者所感

シンポジウムの共同企画者であり司会を務めた坂東昌子さんが、シンポジウムが終わったあと「科学(または科学者魂)が二の次になっている」と言われた。私はこれに引っ掛かり、参加した友人と話しをした。それを軸に、いま頭をめぐっていることを断片的だが記しておく。

池田香代子さんと松本春野さんが話されたことは、福島はじめ各地で放射線測定の活動をしている角山雄一さん(京大放射性同位体元素総合センター)も見聞きし体験したことだったようで、そのため角山さんは「二人の話を聞いているのがつらかった」と言われた。福島の人の苦悩、あるいはそれに寄り添う人の苦悩が、改めて思い起こされたという意味だと思うが、フロアにいた他の科学者の方も同じだったのだろうか。それともお二人の話は、初耳のことだったのだろうか。 どちらにしても、質疑応答で科学者の方々の発言――放射線被ばくに関する知見の紹介でもよいし、科学(者)と社会についての考察でもよいので――を聞きたかった。

池田さんと松本さんの話から何を学ぶかについて、シンポジウムに参加した私の友人が、次のように言った。 「お二人は、イデオロギーに依存せずに、科学的なデータに基づいて考えることを語られたと思う。しっかりした科学者がいれば、始めは混乱しても、落ち着くべきところに落ち着くものなのだ、という内容と受け止めた」 だから、放射線の被ばく影響を頭では理解しても恐怖心が消えないことを、高所恐怖症と蜘蛛恐怖症の例でたとえられたことについては、 「放射線恐怖症は、最初に放射線はちょっとでも怖いものだという知識が入ったことで生じたものだから、何の学習もなく本能的に生じる高所恐怖症と蜘蛛恐怖症とは別のものだと思う。放射線恐怖症は、知識の上書きで解消されることもあるのではないか」 と言っていた。 また坂東さんの、科学者魂が二の次になっているという感想について、 「それがどのようなことを指しているのか、具体的に思い浮かべることができないのだが」と前置きした上で、 「科学者に、心情に寄り添う姿勢があったほうが、相手に話が受け入れられやすいのは、人間の性だ。それに、寄り添う気持ちがあれば、相手に分かりやすい説明を工夫できるだろう」  そして、坂東さんに次の疑問を投げかけた。 「福島の現場では、説明の仕方を工夫することを超えて、ベビースキャンを作るところまでいったわけだが、坂東さんの『科学者魂が二の次になっていないか』との感想は、寄り添うことに引っぱられて、『科学のある部分が毀損されている』ということだろうか?」 科学者だって、現場に行って当事者の話を聞けば心が動かされ、何とかしてあげたいと思うはずだ。そのとき、「心に寄り添う」ことを第一にすると、科学的真実を曲げる場合があって、それでいいのか?という坂東さんの疑問だろうか?たとえば、1mSv/yを超える場合は避難を保証すべきという主張は、心に寄り添ってはいるけれど、科学的真実を無視しているということだろうか?

「被災した人たちに寄り添う」とよく言われる。これは大事なことで、基本的なことだと思う。私は個人的には、寄り添うという言葉よりも、耳をかたむけるとか、相手の立場に立って考えるといった言葉の方がしっくりくるが、それはさておき、私は取材してものを書く仕事をしているが、まず最初は、相手の立場に立って話を聞くことを心掛けている。ただ、そこに留まるのではなく、その先を見ていかないといけないと思っている。そのときの武器は、メディアの人なら、取り上げる物ごとについての勉強と綿密な取材だろうし、科学者ならそれぞれの専門性であり専門的知見だろう。 また、その先に見たこと考えたことを社会に伝えてこそなんぼのもので、メディアの人にとってはそれが仕事なのだけれど、科学者だって同じだと思う。社会が混乱しているほど専門家の役割は大きい。 だが3.11で浮かび上がった問題は、その専門家の中で被ばく影響についての見解が大きく違ったことだ。イデオロギーで科学を語る科学者と、科学的なデータに基づいて語る科学者を、市民が見分けなければならないのは大変だ。

もうひとつ、「現場」について考える。現場は大事で、特にメディアの仕事は現場の取材が重要だ。ただ気をつけないといけないのは、現場で起こっている事象にとらわれて、木を見て森を見ない場合がある。じかに見聞きして肌で体験したことと、俯瞰して見ることの両方を、行ったり来たりさせる必要がある。 さらにあえて言うが、現場を体験していなければ、何もできないのか?現場を知らない科学者が何かを発言しても、その価値は低いのか? そうではないと思う。市民にせよ科学者にせよ、一人の人ができることは限られている。できないことがあっても想像力がそれを補うはずだし、他者と補完し合い連携しながら進んでいくものだと思う。

「科学(だけ)で人は説得できない」という趣旨のことを、ある科学者が言った。私もほぼ同意見だが、最近、興味深く思ったことがある。 坂東さんはこのところ、ある人と話し込んでいる。その人は、放射線はいかに微量であっても体を蝕むので人類にとって悪魔だと考えて、これまで正義感から発言してきたが、市民からも批判されて孤立することもあったようだ。 この人は、最初は坂東さんの話に聞く耳を持たなかったが、坂東さんが膝付き合わせて様々なデータを見せながら話をしているうち、少しずつ正しい知識と置き換わっているらしい。二人は、考えにまだまだ相いれないところはあるものの、少なくとも話せる間柄になっているようだ。 このエピソードは、科学が人の考えを変える例ではないだろうか? とは言えこれも、坂東さんがこの人の話にまず耳を傾けたことがきっかけではないか? というのは、「私の話を聞いてもらえない」という疎外感や絶望感が、この人から異なる意見を聞く耳を奪った気配があって、それに対して、ともかくあなたの考えを聞こうという坂東さんの態度が、この人の固い心をほぐしたようなのだ。ただ私が興味深く思うのは、そのあと、二人の相互理解を促す共通語が「科学」であることだ。 ある考えに固執するのは何か理由があるはずで、それが科学に関わることなら、思い込みから抜け出させて正すことができるのは理念や情ではなく、科学かもしれない。

ただ私は、科学が絶対的な真実だと思っているわけではない。ここで詳しく書く余裕はないが、科学は自然を見るときの一つの見方に過ぎないという「見方」も、科学者の一人から学んだことである。私はずっと、科学とは遠く離れた分野に関心を抱いて仕事をしてきたが、ここ10年ほど科学者と呼ばれる人と身近に接して、それまで考えてもみなかったことを考えさせられている。

「科学が二の次になっていないか?」という坂東さんの発言に対して、私は以上のごとく、自分の意見を明確にまとめることがまだできない。そもそも私と友人は、坂東さんの真意と違うことを話しているかもしれない。 にもかかわらずここに書いた理由は、この記事を読んでくださった方が、科学者魂という言葉や概念について、どう考えられるだろう?科学と社会についてどんなことを考えておられるだろう?と思ったからだ。坂東さんとはいずれ話をしたいと思っている。

それにしても、放射線被ばく、特に低線量放射線の被ばくとその影響に関する知識を、きちんと分かることが難しい。私は10数名の科学者と『放射線必須データ32』を作って、被ばく影響の根拠となるデータを4年がかりで読み込んだが、それでも今「●●は影響があるのかないのか、根拠を示して説明してほしい」と言われたら、すらすら答えられない。 被ばく影響のことは、根拠をもとに考えたり発言したりしないといけないと思って先の本を作り始めたが、なかなか難しい。放射線は見えないし感じないものだから、「説明」するしかないし、説明されるほうも概念として理解するしかない。 どうすれば、一般の人がもっと理解できるようになるのだろう……などと思っているうちに、一つの優れた方法は、角山雄一さんが取り組んでおられる「測る」ことだと気付いた。理解は、こういうことから始まっていくのだと思う。

(文責:艸場よしみ)

 

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