現代科学技術文明の岐路 - NPO法人 知的人材ネットワーク・あいんしゅたいん

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現代科学技術文明の岐路

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私は先に「人類文明の近未来像・・・物質・エネルギー的視点から見た繁栄と崩壊」と題する一文を書き、日本を含む世界の先進国の衰退と崩壊について論じた。この問題は非常に重要であると思うので、再論したい。

たかが電気

米国在住の音楽家、坂本龍一氏が、たかが電気と言ったことが脚光を浴びて、賛同と批判を浴びている。彼はこういった。「言ってみれば、たかが電気です。たかが電気のために、なんで命を危険に晒さないといけないのでしょうか。2050年頃には電気は各家庭、事業所で自家発電するのが当たり前の世の中になって欲しい。たかが電気のために、この美しい日本、そして国の未来である子供たちを危険に晒してはいけない」

いかにも芸術家らしい、感性的な発言であるが、そこには理性的な論理は全く無い。電気と命を対比するのは論理的でないからだ。いずれ議論する予定であるが、アメリカの国家研究カウンシルの報告によると、19世紀に起きたキャリントン現象程度の太陽面爆発が起きると、アメリカでは1ヶ月から1年に及ぶ停電が起きて、電気が無い為にアメリカで最大90%の人が死ぬだろうと警告している。そこまでは行かないにしても、数百万の死者と百兆円ほどの損失が出ると予測されている。19世紀のときは死者は無かったの、21世紀になぜそんなに大量の死者が出るのか。それは、現代文明が電気の恩恵にどっぷりと浸っており、非常に脆弱だからである。私はむしろ「たかが音楽」と言いたい。音楽が無くても人は死なないが、「たかが電気」が無いと人は死ぬのである。それが現代文明の特徴なのである。

現代文明の基本的技術は以前にも述べたように内燃機関、電気、コンピュータである。現代文明はこれらが無いと成立しない。内燃機関は自動車、船舶、航空機などの交通機関の基礎である。内燃機関が無くなることは無いだろうが、石油が無くなると、これらの交通機関は動かない。電気は先に述べた通りである。電気がひと月も停電すれば、経済は崩壊し、膨大な死者が出る。コンピュータがとまると経済は完全に麻痺する。我々の給与も年金も預金もすべてがパーになる。コンピュータを動かしているのは電気である。つまり現代文明は非常に電気の恩恵を受けており、これが無いと崩壊するほど脆弱なのである。

私は化石燃料など非再生可能資源の枯渇の為に、2050年頃どころか2040年には、日本の経済レベルは終戦直後程度にまで後退すると予想する。そのため美しい日本も存在せず、未来の子供たちは危険にさらされている可能性が高いことを、この論考で述べる。理由は標語的に言えば、「たかが電気がなくなる」為であるが、厳密に言えば電気が無くなるのではなく、高くなるからである。

成長の限界

先の論考で「成長の限界」を紹介し、そのグラフも示したが、これが私の議論の根幹にあるので、再度、紹介したい。

1972年にローマクラブが「成長の限界」という本を出した。それはマサチュセッツ工科大学のメドウス助教授たちに依頼して、今後の世界の運命を占ってもらおうという試みであった。メドウスたちは当時はやりつつあったシステムダイナミックスという手法を使って、1900年から2100年までの、世界の人口、工業生産、農業生産、サービス、非再生可能資源、汚染の5つの変数について時間変動をシミュレートしたのである。

たとえば人口の変動は出生率と死亡率の差で決まるが、出生率は他の変数の関数である。出生率は豊かになるほど少なくなることは、日本の経験からも明らかだ。死亡率も豊かになると減少する。豊かさの指標とは、一人あたりの工業生産、食料、サービスである。サービスには教育、商業などである。汚染による死亡率の増加も考慮する。このような、変数間の複雑な関係をすべて組み込んで、彼らは世界システムのシミュレーションを行った。1900-1970年は既存の観測データと合うようにパラメターを調節した。

このようにして計算してみると、世界の人口も、一人あたり工業生産、農業生産、サービス、汚染もすべて、21世紀の前半にピークに達して、それ以降、急速に低下することが分かった。同時に非再生可能資源は、急速に減少することも分かった。この結果を一言で言えば、21世紀中に人類文明は崩壊するということだ。

驚いた彼らは、いろんな可能性を試してみた。たとえば、人口が減るのは食料が少なくなるからだろう。そこで農業生産性を大きくかさ上げしてみた。また文明崩壊の根本的な原因は、石油や金属などの非再生可能資源の枯渇にあるので、その埋蔵量が当時推測されていた値よりも遙かに大きいと仮定してみた。すると人口はさらに増え続けるのだが、しかしやがて21世紀内で頂点に達して、その後は激減する。つまり食糧や資源を増やすと、崩壊時期は遅らせることができるが、崩壊の規模はむしろ劇的になるのである。

そこで彼らは持続可能な世界の可能性を試してみた。そのためにはいろんな方策を講じなくてはならない。たとえば人口を爆発させないためには、一人死ぬと、一人産んでよいと法律で決めるとかである。しかし、いろんな方策を使っても、持続可能社会の構築はきわめて難しいことが分かった。しかも、その手立てを講じるのは早いほうがよく、20世紀内に行わねばならない。21世紀ではもはや手遅れなのである。

この本が出版されると、大きな反響を呼んだ。それは当然であろう。そしてさまざまな批判がなされた。たとえば人類は賢明だから、自分が滅亡するようなことはしないというものがあった。あるいは、持続可能社会を唱えることは、発展途上国の発展を抑圧しようとするものだから受け入れられないという批判があった。実際、最近も二酸化炭素放出の抑制の国際的取り決めに対して、中国などの発展途上国は反対している。「成長の限界」は20世紀内での文明の崩壊を予言したのだから、間違っていたという、明らかに本を読んでいないか、意図的な間違った批判もなされていた。本のグラフを見れば、変数のピークは明らかに21世紀にあるのだ。

「成長の限界」が出版されて、今年で40年になった。その間、メドウスたちは再検討を行ったが、基本的な結論に変化はない。メドウスは現在では名誉教授になり、もはやあきらめていると語っているそうだ。最近オーストラリアの学者が「成長の限界」の予測と、1970-2000年の実測データを比較する研究を行った。その結果、現実のデータは標準モデルの数値ときわめてよい一致を示していることが確認された。技術革新モデルが予測した農業生産の飛躍的な増大は見られていないので、技術革新モデルは合わない。また持続可能性モデルは、20世紀に手を打っていないので、これも既存のデータに合わないのである。

そこで標準モデルのグラフが正しいとして、それをよく観察すると、次のような結論が読み取れる。世界の人口は2030年頃をピークとして、後は減少を続けて21世紀末には1980年のレベルに減少する。一方、豊かさの指標である一人あたりの工業生産、農業生産、サービスは2020年頃にピークに達し、それ以降は急速に減少して、21世紀の終わりには20世紀の初めのレベルにまで後退する。そのレベルは一人あたりの工業生産とサービスに関していえば、現在の1割程度のレベル、一人あたり食料は現状の半分くらいになる。つまり21世紀末は 日本で言えば江戸時代末期、明治時代初期のレベルであろう。つまり現状に比べて、圧倒的に貧しくなるのである。

この文の読者の中で21世紀末まで生きる人はいないだろうから、自分は安心だと思うと大間違いである。「成長の限界」の結果を信用する限り、一人あたりの工業生産、食料、サービスのピークは2020年頃であり、もうすぐなのだ。しかもこれは世界の平均であり、日本、アメリカ、ヨーロッパなどの先進国は、すでにピークに達した可能性がある。その予兆については、後で述べる。

しかもピーク後の崩壊が急速なのである。たとえば今から約30年後の2040年頃には、一人あたりサービスは現状の半分で1970年のレベルになる。工業製品に至っては2040年のレベルは1940年代のそれになるのだ。つまり物不足の時代に突入する。ちなみに太平洋戦争の終戦は1945年であるから、その当時の生活を想像すればよいだろう。戦前と終戦後しばらくは、空調、水洗トイレは当然ないし、電気冷蔵庫、洗濯機、炊飯器、テレビもない時代であった。

もっともこの研究は40年も前のものであり、その結果を信じないという受け止め方もあるだろう。また成長の限界は世界を一つのシステムとして扱っているが、先進国も発展途上国も一緒に扱うのは粗すぎるという批判は当然あるだろう。コンピュータ能力も当時と現在では、低く見積もっても100万倍の差はある。もっと詳細な各国別のデータもあるから、もう一度再検討する必要性はあるだろう。実際、メドウスたちは再検討したのだが、基本的な結論に差はない。

先進国の文明崩壊の予兆

先進国における文明崩壊の予兆は、そこかしこに見られる。たとえば日本では、今年、国家公務員のボーナスを9%削減するというニュースを聞いた。さらに退職金も1割減額するというニュースもあるし、給料も着実に減っている。これらのニュースを聞いた庶民はたぶん、公務員のことだから、ざまあ見ろと思うであろう。しかし、もしそう思ったとしたら、近視眼的だ。近い将来にざまを見るのは、自分たちであることが分かっていないのだ。この給与減額の原因は、要するに国家財政の破綻にある。

日本は国家予算の半分程度しか税収がなく、残りを国債でまかなっている。日本の国債のGDPに対する比率は破綻国家ジンバブエを除けば、世界一である。しかし幸いなことに、ヨーロッパがさらに調子が悪いので、当面、円はドルやユーロに対して高く、国債も外国人が買っているわけではないので、安泰に見える。しかし、それでもこのまま行けば、国債が際限なく積み重なるだけで、借金を返せる当てはない。終戦の時に戦時国債をパーにしたような、借金踏み倒しというドラスティックな手ぐらいしか残っていないであろう。

一部の政治家は経済成長が解決の鍵だと主張するが、それが不可能だというのが「成長の限界」なのである。日本の国家予算の構成を見ると、その半分近くは年金、保険、生活保護など広い意味の社会福祉予算である。これを切ることは当事者が多いから、きわめて困難である。財政を均衡させるためにやるべき事は、単純に言えば2倍に増税するか、支出を半減するしかない。しかし、これは言うだけなら簡単だが、政治的にはきわめて困難なのである。たとえできたとしてもそれで問題が解決する保証は無い。またそんな政策は、戦争でも起きない限り、平時にはできそうにない。

日本のGDPの変化を見ると、1990年までは一貫して増大してきたが、それ以降現在まで増えていない。ほぼ一定である。しかも庶民の所得を見ると、一定どころかこの間ほぼ100万円ほど減少しているのである。たぶん、大金持ちが残りを頂いたのであろう。その理由は格差拡大であろう。

この傾向は米国でもっとも顕著だ。ニューヨークタイムズやファイナンシャルタイムズを読んで得た感想では、米国は1990年以来、日本と違ってGDPは増大しているが、個人所得は一部の金持ちのものが異常に増大する反面、中流以下の階層はむしろ貧しくなっているという。実際、中流以下の個人所得が1990年のレベルにまで減少したというニュースと、ヨット、豪華住宅、クルーズなどの贅沢産業が空前の好景気に沸いているというニュースが混在しているのである。

米国の科学ニュースを見ていると、大きな成果を上げている反面、政府の予算カットがひしひしと迫っていることが感じられる。私が関心を持つ宇宙予算も例外ではない。火星へ行くとか、月へ行くと言った華々しいプロジェクトは、つぎつぎと切られている。中国の宇宙活動の華々しさとは対照的である。そこで宇宙科学者が政府に抗議をしようと検討した結果、宇宙関連予算はむしろカット幅が低いので、抗議はむしろやぶ蛇になる恐れが多いとして、取りやめになった。

ヨーロッパは今まさに、経済危機の最中にある。まずギリシャがこけそうになり、現在は小康を得ているが、安易な解決策はない。ギリシャの次はスペイン、その次はイタリアだとささやかれている。ポルトガル、アイルランドはすでに破綻状態にある。まともなのはドイツ、北欧、オランダ、ルクセンブルクくらいなものだ。国家財政の内、広い意味での福祉予算の占める割合が大きく、税収がそれに伴わないので、国債でまかなわざるを得ない。その点では日本と同じだが、日本と違ってギリシャなどの国債は外国人が所有しているので、危機に弱いのである。

根本原因は何か?一つには先進国の国民は分不相応な贅沢な生活をしていることにある。とはいえ、生活水準を落とすことを主張することは、政治的にきわめて困難である。実際、ギリシャでは国家公務員の給与と人員の大幅な削減や、その他の予算削減などを含む緊縮財政がドイツなどから求められたが、デモや争乱が起きて、その実現は政治的に極めて困難である。

マレーシアの元首相のマハティール氏が英国の経済誌ファイナンシャルタイムズに寄稿した論文を読んだ。要点は。ヨーロッパ人は、アジアとヨーロッパに対して異なる基準、つまり二重基準を当てはめているという批判がひとつある。もうひとつは、ヨーロッパ人は生活レベルを現状の半分に落とさないとやっていけないというものだ。まさにその通りだと思うが、当然予想されることだがマハティール氏の寄稿に対して、コメント欄でヨーロッパ人から激しい反撃を浴びせられた。マレーシアやマハティール氏に対する悪口でしめられていたのだ。これらのコメントは一見論理的な反論を装ってはいるが、アジア人の私の目から見れば、要するに人種偏見以外の何物でもない。アジア人ごときが、俺たち白人様に意見をたれるのは何事かというのである。しかしまともな意見もあった。英国の新聞がマハティール氏に寄稿を求めたという事実そのものが、西欧民主主義のおかげだというのである。それはその通りだと思う。中国ではできないであろう。

スティーブン・キングという銀行家の著書「失われる支配権」(英文)を読むと、西欧先進国が中国など発展途上国に対する支配権を失いつつあるという。その本の結論は、グローバリゼーションの結果としておきることは、先進国と発展途上国の平準化であり、国内での格差拡大であるという。このことは極めて重要である。

これは日本と中国の関係を見るとわかりやすい。中国が昨年、GDPで日本を抜いたが、しかし人口が10倍もあることを考えると、国民一人あたりの平均所得は低い。従って労賃も安い。中国が昨今、外国企業に門戸を開いたおかげで、日本の企業は大挙して中国に流れた。その結果、日本では雇用が失われ、労働者の平均賃金が低下した。そして中国では平均賃金が上昇した。しかしその結果として、中国の賃金は高くなり、今後はベトナム、ミャンマーなど、さらに賃金の安いところに、雇用は流れるであろう。つまりグローバリゼーションは、国と国の間の格差を減らすのである。

ところが日本国内で雇用が失われた痛みが、国民に一様に降りかかっているかというとそうではない。正社員は比較的守られているが、その分、非正規雇用が増えている。ニートやフリーターが増えているのは、当人たちの努力不足のせいだけではなく、このような格差拡大のメカニズムによるものである。今後ますます、先進国は衰退して行くであろうから、そのときにますます格差拡大の方向に向かうので、社会は不安定化して行くであろう。

日本ではさらに、原発停止に伴うエネルギーの不足と不安定化、代替燃料の輸入増加にともなう国富の喪失、製造業の海外への流出とそれに伴う雇用の喪失などのために、衰退化はさらに加速されるであろう。

私は風力や太陽光発電による、いわゆる再生可能エネルギーは幻想だと思っている。たしかに一部のエネルギーをまかなうことはできるだろうが、あくまで一部でしかない。さらに言えば20年後には、使われなくなった風車と太陽電池の残骸の山になるだろうと予想している。70年代にも一度、再生可能エネルギーのブームがあり、結局はポシャってしまった過去があるのだ。多くの国民はそれを忘れて、再生可能エネルギーの夢を見ているのだ。というよりは、夢を見せられているのだ。

ドイツ、スペイン、デンマークなどの再生可能エネルギー先進国は、実はうまくいっていないのである。コストが高すぎて国家財政の重荷になっているのである。実際、風力発電が多いデンマークは、電気代がヨーロッパで一番高く、次にドイツが高い。

私は脱原発すれば、結局は火力に頼るしかないと思っている。その燃料は主として天然ガスである。アメリカではシェールガスなどのブームであるが、日本は所詮、輸入するしかない。当面は金さえ出せば、化石燃料は輸入できるだろうが、これらのものは、要するに非再生可能資源であり、早晩枯渇は免れない。成長の限界の呪縛を逃れることはできそうにないと思っている。

中国は現在、破竹の進撃を続けているように見えるが、果たしてその調子のまま、いずれ米国をも抜くのだろうか。80年代の日本は正にそのような勢いがあった。日本全国の地価の総額は米国のそれを抜くとまで言われた。バブルの時代である。ところが90年代に入ると、成長がピタリと止まった。西欧諸国は日本をあざ笑ったのだが、現在、彼らも同じ状況に立ち至っている。つまり日本は世界の最先端を行く国であると言えなくもない。

そうだとすると、中国も(韓国も)いずれ、成長がピタリと止まるときが来るかもしれない。それも比較的近い将来に来るかもしれないと感じている。中国の国民全員が西欧先進国並の生活を享受する資源がそもそも地球にはないのである。中国も成長の限界の呪縛から逃れることはできないように思う。

貧しさへの逆戻りの予感

現在の日本政治の混迷は、人々が上に述べた危機感をぼんやりと体感しているからではないかと思う。首相がコロコロ変わるのも、野球で負けているチームが9回裏に、つぎつぎと投手を投入したり、ピンチヒッターを投入して、なんとか大逆転しようとあがいている光景を想起させる。しかし私の意見では、危機は構造的なもので、首相を換えたぐらいで解決するものではないだろう。しかし首相をコロコロ変えているようでは、危機解決にはほど遠いであろう。

我々日本人は、1945年の終戦直後の貧しい時期から45年かけて、1990年のジャパン・アズ・ナンバーワンのピークに至った。そして約20年後の現在に至るまで、ほぼ一定の豊かさを保ちながらも、少しずつ衰退している。きわめて単純に言えば、我々の豊かさは終戦後の1程度から1990年頃に10程度になって、1990-2012の間はほほ10を保っているといえるだろう。私の予想は、今後また45年かけて、元来た道に戻るだろうというものだ。つまり2050年代は、終戦後の貧しい生活に逆戻りである。

しかし終戦直後も人々は生活していたのであり、その生活に慣れれば何とかなるものだ。問題はそのような社会に軟着陸できるかだ。さらに軟着陸できたとしても、現在の若い人が、豊かさのピークからスタートして、後は下り坂の生活に我慢できるかが問題だろう。もっとも豊かさの積分値に関して言えば、老人も若者も同じなのだ。問題はごちそうを先に食べるか、後に食べるかの差であろう。

以上に述べた悲観的な暗い未来像は必然的かと言うと、そうではないだろう。人間が理性を働かせて、最善の政策を行えば、解決できるであろうと確信している。問題は、実際には最善の政策が行えないことにある。最善の政策は理性的に決めなければならない。しかし人間は理性では動かない。坂本龍一氏のような感性的な言葉に動かされやすいのである。

日本は論理で動く国ではない。空気で動く国である。世論がパタン、パタンと極端に変わる国である。首相がコロコロ変わるのもその為だ。この空気というものは、マスメディアと国民が一体となって醸成しているものである。それは戦前から一貫している。首相がコロコロ変わるのは、マスメディアが主導している。マスメディアは理性的ではない。資本の論理として、儲かることがすべてである。儲かる為には、売れればいいので、ウソも本当も関係ない。国民も理性的な議論よりは、感性的な煽動に踊らされやすい。この状況が解決されない限り、この国の未来は暗いと私は思う。

   
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