研究所紹介  

   

活動  

   

情報発信  

   

あいんしゅたいんページ  

   

無縁坂

詳細

日本音楽散歩 1で加古隆の「パリは燃えているか」を取り上げた際、私の母について述べた。母は大阪の生まれである。父は福島県の相馬から大阪に出てきて実業学校に入り、電気技師となり阪急電車に勤めた。そして下宿先の一人娘であった母と昭和17年に結婚した。いわゆる養子になったのである。そして私が昭和18年に生まれた。しかし父は昭和19年にマリアナ沖海戦で戦死した。

その時の母は、父母と乳飲み子の私を抱えて途方に暮れたであろう。その後、母は父の友人であった男性と再婚した。私にとっては義理の父である。義理の父も父と同様に富山県の片田舎から大阪に出てきて、父と同じ学校に入った若い男性であった。当時は長男が家を継ぐのであり、長男でない男性は養子になるしかなかったのであろう。想像では、義理の父も若い頃の母に惚れていたのではないかと思う。父が亡くなったので、僕の面倒を見ると宣言して、母と再婚したらしい。そして妹と弟が生まれた。

しかしその義理の父も、僕が大学に入った年に、家を出て別の女性と同棲を始めた。その間の事情は、義理の父だけが悪いとは言い切れない。母の母、つまり私の祖母は非常に気性の強い女性であった。祖母は私の父を非常に可愛がっていたので、義理の父との間がうまくいかなかった。母はいつも祖母の意見に押さえられていたようだ。母は、自分の母と二度目の夫の間に立って、非常に苦労したようだ。

もっとも、祖母は祖母で実は大変な人生を歩んできたのである。祖母の父は、祖母が5歳の時に日露戦争で戦死した。そのため祖母は他人の家に預けられて、実は小学校さえ満足に出ていないのである。だから祖母は字がほとんど読めなかった。祖母はその後、馬車馬のように働いた、あるいは働かされた。僕の食が細いのを心配して、自分は若い頃は丼飯を何杯も食べたとよく言ったものだ。祖母の性格の強さというか、性格のきつさは、その経験から生じているのであろう

最初の夫に戦死され、二度目の夫に40代の若さで去られた母は、その後、生活に苦闘することになる。保険のセールスや、親戚の会社の事務員を務め、いろいろとつらい目にあった。そして最後には、茶道裏千家と小原流華道の師範の免許を取って、それで生計を立てた。90をすぎる頃から、だんだんと認知症になり、千葉の妹の家に引き取られてた。そして2013年3月に92歳で他界した。

「運がいいとか悪いとか人は時々口にするけど、そういうことって確かにあると、あなたを見ててそう思う。忍ぶ 不忍(しのばず) 無縁坂 かみしめる様なささやかな 僕の母の人生」

さだまさしの歌「無縁坂」の歌詞の一節である。

母はいわゆる男運の悪い女性であった。

それでは本家のさだまさしの「無縁坂

香西かおり

水森かおり

川中美幸

私自身も大学に入った時点で、母が生計の道を失ったので、学資は二本の奨学金とアルバイトでまかなった。母から学資を得るのではなく、わずかではあるが家計にお金を入れていたという自負がある。勉強の傍ら、アルバイトをたくさんして学資を稼ぎ、合気道部の主将を務めた。だから私は何不自由なく育ったお坊ちゃん、お嬢ちゃんの学生に対しては暖かくないのである。彼らが優秀であったり、一生懸命勉強する場合は大いに応援するが、親や世間に甘えて、ろくに勉強もせず、適当に遊び、がんばらない学生に対しては冷たいのである。

母がなくなった今、私はこの歌を聴くと母を思い出す。母は夫に去られてしばらくはつらい人生を歩んだが、私を頼りにしていた。私が京都大学で理学博士になったとき、新聞記事に出たが、その切抜きを母は大事に持っていた。ということも遺品整理でわかった。その後の私は、自分の人生を生きるのに忙しくて、母をあまり訪ねられなかった。今にして大きく後悔している。

   
© NPO法人 知的人材ネットワーク・あいんしゅたいん (JEin). All Rights Reserved