2017年09月24日

「あいんしゅたいん」でがんばろう 45

四つの科学 その3 

連載の主題から逸れるが、6月20日発行で佐藤・高橋義人著「10代のための古典名句名言」岩波ジュニア新書という本が出た。湯川秀樹が色紙などに書いていた中国古典の名言などに興味を持っていたのが古い動機だが、京大在職時に知り合いになったドイツ文学者の高橋さんを誘って作った本である。二人は、専門も、好みも違うので、句の選択にはヴァラエティがでた。

啓蒙主義と科学への反発

連載の「四つの科学」に戻るが、初回に示したダイアグラムの右側の部分の話をしていて、ここでは自然現象以外にも「科学的方法」を適用していくのが課題である。しかし、この試みには多くの苦い歴史がある。

最近は制度科学以外の意味で「科学的」という言葉があまり語られなくなった。しかし、敗戦直後の日本では盛んに唱えられたものである。「その意見は科学的でない」という批判は極め付けだった。しかし同時に、「科学的」という言葉が威力をもって輝いていた時代を生きた世代の人達に「現実は「科学的」は割り切れない、心の大事さを悟ってきて、現在があるのではないか」という感想を残したことも事実である。「科学的」が心に配慮しないものだという記憶を残した。また大局的に見ても、理性という正義の名のもとに進められた悲惨な歴史がある。大戦や自然破壊は合理主義一辺倒の恐ろしさを露呈した。安易に科学と生活を結びつけることを警戒し、個人の選択の予知を大事にすべきだとなったのであろう。そんな雰囲気が背景にあって、科学という言葉は次第に理科の科学、制度科学や職業としての科学といった隔離された領域での科学に閉じ込められて行ったのだと思う。

「科学的」というものが自然研究以外の世界に適用された場合の反発を記した古典的な文章を紹介しておく。「バーリン ロマン主義講義」(田中治男訳、岩波書店)にある文章である。18世紀啓蒙家ボルテールに反発する同時代人のハーマンなる人物の言説である。

「科学は、人間社会に適用されるならば、一種恐るべき官僚化に通ずるであろう、と彼(ハーマン)は考えた。彼は、科学者、官僚、物事を整然とする人々、流暢なルター派の聖職者、理神論者、誰であれものを箱の中にしまい込もうとする人々、誰であれあるものと他のものを同じにしようとし、たとえば、創造とは自然の提供するデータの獲得であり、そして、何らか満足のいくパターンにおけるデータの再編成と実際におなじである、と証明しようと欲する人々に反対したのであったー他方ハーマンにとっては、もちろん、創造とはもっとも言い表しえず、叙述しえず、分析しえない人格的な行為であって、それによって人間は自然の上に自らの刻印を押し自らの意思を高揚させ、自らの言葉を語り、自らのうちにあり、どんな種類の障害をも許さないであろうことを表明しているのであった。それ故、啓蒙の理論全体は、人間のうちに生きているものを殺し、人間の創造的エネルギー、諸感覚の豊かな世界全体に代えて、か弱い代替物を持ち出していると彼には思われた。そして、このような感覚世界なしには、人間が生き、食べ、飲み、喜び、他の人と会い、人々が消えてしまい、死んでしまわないために不可欠な無数の行為に耽ることは不可能なのである。彼には、啓蒙思想はこのことに重点をおいていない、啓蒙思想家によって描き出された人間は、「経済人」でないとすれば、少なくともある種の人工的な玩具、ある種の生命を欠いた模型であって、ハーマンが出会い、日常生活の中で交際したいと思う種類の人々とはまったく関係ない、と思われた」

思想としては存在しても、制度的、職業的、には全く異なる時代の科学であるが、権威と化した二十世紀に入ってからの様々な科学主義への様々な反感を雄弁に述べ立てている。「科学者、官僚、物事を整然とする人々、流暢なルター派の聖職者、理神論者」を「科学的」な同類な人間と捉えられているのも含蓄深い。「物事をちゃんと分析して、合理的に考えて、真面目に答えを出していこう」こと全体に反発する風潮は現在を世の中に横溢している。それが何に反発してるかの諸傾向をこの文章は暗示的である。

ここで注意しておくと、バーリンの主題は本の題名から分かるようにロマン主義である。それを描くために、対抗馬としての啓蒙主義と科学が登場するのである。いわゆる西洋近代、社会が「聖から俗」に移行する時代に噴出したのが社会的規模のロマン主義である。血塗られたフランス革命がフランス啓蒙主義と重ねられイメージダウンした後の反動、復古調としてのロマン主義であったが、先の文章はその時代以前のものである。だからロマン主義の萌芽をこの文章に見ることができるという意味である。

バーリンは啓蒙主義とは、問題には答えがある、万人が理解できる、答えは相互に矛盾がない、の三つから成るとしている。筆者には、第二と第三は民主主義と科学と通底するが、第一についてはキリスト教の真理観を引きずっているように思う。何れにせよ、人間は平等だから賢人や聖人や党に指導される姿を拒否のするのだが、現実の代議制が正当化されるのは正に啓蒙主義の三原則があるからである。さらに、この三原則は、それを啓蒙主義と呼ぶかどうかは別にして、科学という営みでは当然のことのように思える。それが反発を受ける意味を深めることが必要である。また、近代的なロマン主義の傾向というものを視野にいれた意味での科学論議が必要であるともいえる。啓蒙、科学、ロマン主義、さらに自然主義といったものの時代の変容の中でどのように役回りが変わって来ているのかに考察を広げる必要があるようである。

(次回に続く)