2017年11月24日

「あいんしゅたいん」でがんばろう 38

理科とSTEM 第6回

SからSTEMへ

現在、アメリカだけでなく何れの先進国でも、グローバル化の中で若年者雇用と経済活性化の課題が主要な政治問題になっており、そのための教育改革がいっせいに叫ばれている。そんな中でSTEM(science,technology,engineering,mathematics)という新語がアメリカの科学教育改革に登場した。他の先進国をみると、EUの科学教育改革では、SETや MSTという言葉が用いられている。また、英国ではMSという表記であったが、2006年のある報告書以後あたりから、アメリカと同じSTEMに統一されている。何処でも、教育を考える際はSでは十分表現できないとして、SからSTEMの表記に集約されつつある。

参考:例えば、米国の企業連合のSTEMへの取り組み http://www.changetheequation.org/
       英国のSTEM教育ネット http://www.stemnet.org.uk/

「科学研究と理科教育の混同を避けよう」

先進国で急速に起こっているこの変化はどう受けとめるか?私は日本での理科教育改革を考える上でも注意すべきポイントであろと考える。日本では理科はサイエンスSに対応するものと考えられてきた。特に高校レベルになると物化生地と理科が科目分けされるので、途端に理学部的な基礎科学の意味合いが濃厚になる。実際、私もやっているが、高校理科教科書の編者というと大体そういう学者が名を連ねている。どんな職業に進むにしても基礎は基礎として独自のものがあり、それには基礎科学の専門家が関与すべきであるという観念が長い間あった。

雑誌「科学」(岩波)の特集「理科教育のグランドデザイン」に私は「科学研究と理科教育の混同を避けよう」という文章を寄稿した(2010年5月号521p)。その冒頭の部分を転載する。

「初等中等教育の生徒たちは教育を計画実行する世代が経験したこともない未来を生きる。教育にはこの逆行時間的なジレンマが本来的に組み込まれている。安定期には体験の延長上に「未来」を想定出来たし、理念過剰な時代には参照すべき不変な枠組みが存在した。しかし、現在のような変革期にはこのジレンマが顕在化する。

理科能力をめぐる教育も変革期にある。社会的にみれば、一つは日本の生活水準と活力を維持するには産業構造がより知識産業化しなければならないという要請であり、もう一つは、裁判員制度導入のように、医療・科学技術に関する判断も専門家依存でなく市民が判断する民主主義の深化が目指されているからである。理科教育を考える背景に日本社会のこの大きな課題の意識が重要である。

本題である理科教育について考えると、上の世代が一番戸惑うのは現在の子供たちの生活感覚の激変である。かつて福沢諭吉は「一身二生」世代(江戸を経験した明治人)とその後の世代との間に生じたギャップに触れているが、現代も似た状況にある。「n次産業から(n+1)産業へ」とか、環境・エネルギー・情報・国際をめぐる社会インフラ激変の中で初めから育った世代が登場している。こうした生活体験の変動は初等中等教育での動機づけとテーマ・素材・手法・設備にとって高等教育の場合よりも悩ましい問題であろう。

理科教育に重点を移すと、物化生地の区分の見直しが要る。学校教育の科目としてうまく馴染んでいないと聞く情報と従来の算数と理科を含めて検討が必要であろう。この問題は教師の養成を接点にして科学自体の専門分科と関連してくる。しかし、研究フロントに繋がる科学自体の専門分科と初等中等での教科は次元が違うものであり、学問の動向の話と混同しないようにすべきであろう。分離して扱うことが出来る課題であり、教科と教員養成はあまり直結すべきではなく、ミスマッチがあれば研修制度の充実で対処するべきであろう。また教師には教育者としての専門性を高める研鑽がつねに求められ、それを可能にする職場環境をつくるために国家資源の投資が必要である。」(以下略)

とかく科学教育改革というと一斉に科学研究分野ごとの枠内での「近代化」などが語れる傾向が長かったので、この文章では敢えて「科学研究と理科教育の混同を避けよう」という問題提起をしたのである。

社会の何処に科学がある?

こうした研究業界と科学教育の関係は欧米の先進国でも同様であり、これまではMとSで語られていた。そして日本でもある中等教育での工業、農業、商業、医療などはvocational(職業)教育という言い方で、MやSとは別物という位置づけであった。今度のSTEMは初等中等の段階からこれらが同じに見える様に意図したものといえる。最近、まだ力があるのに志願者が細りだした業界の人材確保のために、業界が学会や大学の教員と一緒になって高校生や大学生へのアウトリーチ活動が活発になっていた。しかし、工業、農業、商業、医療などの専門家は初等中等教育までも自分たちの守備範囲であるという観念は希薄だったと思う。社会通念として、人材育成は学校教育や教員養成の大学の仕事であるという観念であったと思う。

こうして、職業の世界と分離した教育業界が独自性を強め、相互の交流が途絶え、違うカルチャーが醸成されてきた。このため子供たちが「なぜ学ぶ?」かの動機に社会性が薄れて、受験合格という当面の目標の背景に社会的動機が霞んでしまう一因でもあったのだと考える。初等中等の授業では基礎から積み上げるので、社会的動機にヴァラエティを広げても授業でやることはそんなに変えられない現実があるのかもしれない。STEMというシンボルは子供達に「社会の何処に科学がある?」のかを示して理科の社会的イメージを変革しようとするものといえる。

この連載の今後の課題

今回はアメリカのSTEMを書くと前回の末尾に書いたが、その後、英国やEUにもSTEMが広がっている事を知ったので話しが拡大してしまった。そこで次回以降で論じてみたい内容を箇条書きに記しておく。

1.今回のSTEM改革は教育省とNSFという連邦政府を動員して全米的に行われている訳だが、じつは伝統的に連邦政府は公立学校教育そのものの実施機関ではない。公立学校教育で動く予算の大半は自治体予算で連邦から配るのは政策予算だけで全体の6パーセント程という。教員の雇用は学校ごとで不安定なものであり、待遇も州や地域で違うが日本の正規教員の半額ぐらいのようだ。それもあって小学校教員は大半が女性で、パート的職業のイメージであり、社会的尊敬は高くない。しかし、10年程前から、「日本はうまくいっているのにアメリカは問題だらけ」という国際比較に刺激されて、徐々に連邦政府が一元的に改革に乗り出している。次回はアメリカの学校教育事情を書いてみる。

2.今回、「SからSTEMへ」に引っかけて、閉鎖的な教育業界と現実社会とのずれの是正を強調した。しかしその一方で、「学校はアジールである」であるという教育独特の主張がある。ここでアジールとは聖域、避難所、自由空間、無縁圏などの意味である。現実社会の荒波に防波堤を築いてこそ学校の意義があるという主張である。社会との交流ばかり強調すると行き過ぎになりバランスの問題といえるが、例えアジールと位置づけても、学校の目的は「アジールから送り出す」ことである事を忘れてはいけないだろう。

3.未来を生きる子供に過去を生きた人が教えるという「教育の逆行時間」問題には、普通は「だから時代が変わっても変わらない基礎を教える」のが解答とされる。一見もっともだが、問題はそこでいう基礎とは何かである。これは科学とは何か?という大問題に突き当たる。前期の「科学」所載の文章でもそれを論じたが再論して見たい。

4.藤島氏の提起している日本の理科の二つの内容に戻ると、STEMはそこから大きくずれて行く様に見える。しかし、ここで人間はなんのために知恵を出すのか?と言う点に立ちかえれば、伝統的農業社会をより一般化した子供の生きる社会との関係強化という意味では通じる点もあるのかもしれない。