2017年12月18日

「あいんしゅたいん」でがんばろう 37

理科とSTEM 第5回

「高木仁三郎」

原発事故で高木仁三郎氏の先見性に注目が集まっている。同世代だが、惜しくも2000年に逝去された。生前にオルタナティブ(alternative)科学、市民科学を掲げて「原子力資料情報室」を立ち上げた。彼には私は二、三度、会ったことがあったが、彼の組織活動は大事なことと考えて初期からミニマムのカンパもしている。

私は現在のアカデミアの科学にはシビリアンコントロールが要るとあちこちに書いて主張している。原発の様な科学技術だけでなく、基礎の科学界にもシビリアンコントロールが要るという意味である。近年はそれが説明責任とかいうかたちで制度的に掠めとられているとも言えるが、内実がなければ形骸化する恐れがある。「対抗する視点」の不在は必ず権威化、退廃、不遜、・・等に陥る。

「いま自然をどうみるか」

高木氏の著書に「いま自然をどうみるか」(白水社、1985年、増補1998年)という著作がある。私の著書も参考文献に挙げられているが、特に、ニュートンの空間論が自然に従属しない近代的自然観の嚆矢だとする私の文章を長文で引用している。

高木仁三郎氏のこの本で彼は世間で日に日に広まっていく種々の「エコロジズム」にまつわるの風潮に苛立っている様子が読み取れるが、基本的にはこれを深めるために次のような批判的考察を歴史にそって行っている。

彼の問題意識は「エコロジズムは解放の思想たりうるか」というものである。第一にこれが人間の自然利用を制限することになれば、人間社会の物質的基盤を脅かすことにならないか、ということである。現在の快適な生活を支えている膨大なインフラストラクチャをしばしば忘れがちであるが、それは贅沢を支えているというよりも、人間としての自由や尊厳を支えている基盤になっているのである。前回、「科学の力不足と人間の抑圧」に書いたように科学の力が多くの人間を解放してきた歴史を忘れやすい。

高木氏が提起する第二のエコロジズムを問題にするポイントはもう少し精神的なものである。「人間の自然的規範への従属を要求し、人間の自由と主体性を著しく制限することにならないか」ということだ。自然への従順さだけが強調されると、その社会思潮は個人の自由や尊厳の主張を排除する抑圧的な風潮を助長する様になりかねない。歴史にはその例を多く見ることが出来る。また、自然への没入が強調されると合理性を基礎にした人々の対話の尊重も抑圧されてくるだろう。自然を物神化し、人類の運命をそれに預けるべしという風潮が横溢してくるだろう。

「手の自然観」

高木氏の自然観の考察は、原子力が「プロメテイスの火」と西洋文化圏で表現されていることに引っかけて、ギリシャ神話から始まり、イオニア自然学、アリストテレス、キリスト教、ニュートン、マルクス、資本主義、エコロジー、ニューサイエンス、・・と詳細に批判的に論じていく。大部なものだが、単なる科学史の概説でなく明確な視点があって一読に値する。

「視点」とは、マルクス主義の分析を援用し「物の価値が実際の使用価値によってできまるのでなしに、交換価値という抽象的なものできまるようになった。そこから抽象的概念と、もっぱらそれにかかわる頭脳(精神)労働が発生し、肉体労働と分かれることになった。そして前者を担うものたちは、支配層に属するものであり、その考え(支配層のイデオロギー)は、実際に額に汗して働くものの実感とは遠いものになった」(69頁)というものである。

「このような起源をもつ自然観を、私たちは「知の自然観」と呼んでおこう。そこで注意しておきたいことは、もし右のように捉えておいてよいならば、二極分解した一方の側に、民衆の手の労働や生活と結びついた、民衆的な自然観、いわば「手の自然観」があったはずだ、ということである。前章で述べたヘシオドスの「仕事と日」の場合には。明らかに農業労働の実際に即した「手の自然観」に基づきながら知的な認識が同時に対象化されていくという、二元化されない自然観が認められた。そして、この「手の自然観」はそれ以降の歴史の表舞台には登場せず、また記述されて来なかったけれど、民衆の文化として受けつがれ、歴史の底流でそれを動かす力になってきたのである。私たちはしばらく、ギリシャ哲学―>西洋キリスト教社会という流れの中で、いわばエリートたちの「知の自然観」を問題にするが、いずれ民衆の自然観の重要さに立ちかえることになる。」(69頁)

「なんらかの知覚をもつだけの人びとよりも経験を有する人びとのほうが、さらにその経験家よりも技術家のほうが、さらに手仕事的技術家よりも親方としての技術家のほうが、さらに制作的な知よりも観想的(理論的)な知のほうが、いっそう知恵がある、と思われるのである」(70頁、アリストテレス「形而上学」より引用)という階層構造の上位に「知の自然観」は位するのである。

農業社会からの脱却と新たな自然との交流

日本だけでなく、農業技術の進歩自体が大量の人間の農業的な自然との関わりの機会を奪っていった。しかしそれが同時に近代的な自由や人権を大量の人間にもたらしたことも事実である。藤島氏の指摘は理科の授業に託された期待と子供の育つ環境に齟齬を指摘したものであり、高木氏は科学の知が「知の自然観」を優越させ「手の自然観」を目立たなくしてると指摘してるのである。これは大きな問題であり、教育論議に閉じるようなものでもない。

この大きな課題にまた戻るとして、次回から少し米国の科学教育改革のSTEMという言葉に託された教育理念を見てみよう。