2017年06月25日

「あいんしゅたいん」でがんばろう 2

今朝(12月11日)のノーベル賞受賞式のテレビを見ていて、益川、小林両氏の若い頃の光景が脳裏に去来して感無量であった。まったく、人間というのは“ただの人が偉人に化ける”のだというプロセスを間近にみる縁に恵まれたことを幸運に思う。湯川秀樹が逝去されたときには「偉人湯川に惹かれて」という文章を書いたものである。この湯川の幹に、坂田を経て、小林・益川が花開いたのである。

益川君が京大理学部物理に助手で来たのは1970年であるが、その頃、私も先輩の助手だった。翌年の初めだったかに私は京大病院に入院したことがあったがその時に益川君が花束をもって見舞いに来てくれた。当時の職場の慣習では誰も見舞いに行かないのが普通だったから、この時に見舞いに来てくれたのは新参者の彼だけだった。私も感動して退院後に彼の桃山南口駅近くの公団住宅にお礼に伺ったことがあった。


1974年秋にはクオーク革命で湧いた年だったが、ブラックホールの専門家である私には、この年の初めにでたホーキングの「ブラックホールの蒸発」論文が難題だった。場の量子論の深い理解が必要であり、解読に難渋した。当時大学院生だった本NPO副理事長(予定)の青山君が「小林さんはなんでも分かる」というので、彼の同級生の佐々木節君と一緒にこの論文の勉強会を“マコちゃん”(小林氏の当時の愛称)の部屋でやることになった。当時、私は基礎物理学研究所の教授になっていたが、この四人での勉強会に何回か物理のマコちゃんの部屋に通ったことがあった。


実験成果のクオーク革命に続いて素粒子標準理論の最後のステップに入り、1978年に東京であった国際会議はその宣言の会となり、まとめの報告者は南部さんだった。これで小林・益川論文の評価は決定的になり、益川君は基礎研の教授として再び京都にやってきた。その後、私は理学部物理に移ったが、間をおいて彼も物理にやってきた。ともかく20年ほど同じ職場で教授をやっていたことになる。
若いというのは無限の可能性を秘めている。ノーベル賞とはなかなかいかないが、ただの若者が思わぬ花を開かせるのだ。というより若者しかそれが出来ないのである。持続可能な知的人材のためには若者の活力が一番大事である。