2017年04月29日

「あいんしゅたいん」でがんばろう 1

名古屋での大学のお勤めを終えて京都に帰ってきた坂東さんは猛烈に動きはじめた。私は70歳を期にこれからは周辺を整理していくものだと思っていた矢先ではあったが、坂東さんのエネルギーに煽られて私もこのNPO活動なるものの初体験をいまからやってみようかと言う気になった。「あいんしゅたいん」という名称を提案した手前もあるからこの名に恥じない活動にしていかなければという緊張感がある。

科学を学んで研鑽してきた若い人材がうまく社会に還流していないという緊急の課題がある。私は1995年に「科学と幸福」(岩波現代文庫)という怪しげな題名の著書で基礎科学の転換を予感して科学者の意識改革を訴えたが、現実の方が早手回しにやってきて、既に科学者であった人たちはいっせいに防衛にまわった。日本ほどの大国であれば、どんな基礎的研究も「それが不要」などと言う識者はいないだろうが、ただ「そんなに大勢要るか?」という疑問符はでる。すると脱落者がでると「スリム化で安泰」に戻るから、我慢比べになる。会社と違って、幸か不幸か、科学界には「リストラ」を号令できるものはいないから事態はなんとなくだらだらした「我慢比べ」になる。どうも科学現場的には、余計なことを言えば「どうぞ貴方は外へ出てください」となるから、「危機は新発想を生む」ようには作用せず従来路線墨守になっているようだ。

これでは1,2年が貴重な若い人たちの緊急の課題に時間的にマッチしていない。こうなれば手作りであれこれ始めてみる以外に救いようがない。私自身は「科学と幸福」以来、大言壮語的に科学を巡る時代の転換を訴えてきたが(例えば「科学者の将来」「意外と異色の科学者列伝」(岩波)など)、こうした“手作りの”このNPOの活動については全く経験も自信もなく、ただ気持ちだけが先走るような状態である。また「私の理論を理解しない奴が悪いんだ」と高をくくった突き放した態度でも心が安らぐわけではない。物理学、科学、世の中、を長く生きてきた経験や教訓を発信し、活かしていく場にこのNPOをするために、「70の手習い」で出発である。

(つづく)

写真説明
京都大学卒業時1960年1月頃の写真。左が坂東さん(当時は中山)、一人おいて佐藤である。大学院に入ってからの坂東さんとのつき合いが長いので忘れていたが、4回生の時の研究室分属が一緒だったようだ。我々は統計物理の「富田研」に属していた。思い出すと、この年は富田教授が外国に行っていて、助教授の寺本 英さんに世話になった。ゼミは助手と何人かの院生も出てきて指導してくれたと思う。Kittelの薄い英語の統計力学の本を読んだような気がする。