2017年11月21日

第18回:「フェルミの問題」by 家富

先日,金融資本主義によって引き起こされた今回の経済危機を特集したテレビのドキュメンタリー番組を見ていました.現在の超金余りの状況は危機的であり,例えば2008年のデリバティブ取引残高が700兆ドルとか.同じ年に各国が生み出した総生産(GDP)をすべて集計しても60兆ドルそこそこですから,現在流通しているお金の量は途方もないものであることがわかります.その額を円に換算すれば7京円です.ついに小学校の算数で京( = 一万兆)の単位を教えなければいけない時代に突入したようです.

番組では700兆ドルの規模の大きさを例示するために,百ドル紙幣で地上から700兆ドルを積み重ねていくと,紙幣の柱は月にぶつかり,軽く突き抜けてしまうとの比喩が用いられました.その話を聞いて私は本当だろうかと好奇心にかられ,即座に概算してみることにしました.まず地球と月の距離は約38万キロメートルであることは知っています.さて百ドル紙幣の厚みはどうでしょうか.百万円の一万円札の束を思い起こすと,約1センチメートルだった気がします(滅多にお目にかかったことはありませんが).ということは一万円札の厚みは0.1ミリメートルぐらいであると推定されます.百ドル紙幣の厚みも同程度でしょうから,7兆枚の百ドル紙幣を積み上げるとその高さは70万キロメートル(7x10^{12}x0.0001=7x10^{8}m=7x10^{5}km)となり,先ほどの例え話は正しいことが確認できました.

2008年のデリバティブ取引残高を一円玉の個数で表せば,7京(=7x10^{16})個です.それでは同じ個数の空気分子を含む空気の体積はどれほどでしょうか.高校の物理学や化学で学ぶように,常温・常圧で1モル(約6x10^{23}個)の空気分子を含む空気の体積は約22リットルです.ということは,一辺が1ミリメートルの立方体を空気中に想定すれば,その中には優に7京個を超える空気分子が含まれることがわかります.現在のミクロ経済とマクロ経済との関係は,原子・分子の世界(原子・分子の性質)と日常の世界(物質の性質)との関係に匹敵するようになりました.

このようにあれやこれやと考えながら自分のもっている知識を総動員して行う概算は,とても楽しいものです.問題に対する興味や理解も深まります.また,概算は理科教育の観点からも非常に重要です.一生懸命に筆算を行って正しい数字の並びの結果を得ても,最後に小数点の位置を間違えてしまっては元の子もありません.むしろ桁だけでも正しく見積もる概算の方がよほど有用です.電卓や電子計算機がいつでも使える今,子供たちにとって習得すべき能力は,筆算を正しく実行できる能力ではありません.電子的に得られた計算結果の妥当性を判断できる概算力です.文部科学省が進めてきた施策「ゆとり教育」の狙いの一つでもあったのではないでしょうか.概算において「円周率は3」でもよいのです!

英語には"Back-of-the-Envelope Calculations"という表現があります.まさに概算は封筒の裏を使ってできますね.ここで述べたような概算の問題は物理学者のエンリコ・フェルミ(1901-1954)が得意としていたため,彼の名前にちなんで「フェルミの問題」と呼ばれています.フェルミは,実験と理論の両方をこなし,素粒子・原子核から物性まで専門分野の壁を越えた万能の物理学者でした.そのフェルミによって出された古典的問題として「シカゴにはいったい何人のピアノ調律師がいるか?」があります.フェルミの問題の詳細については,次のWIKIPEDIAのページをご覧ください:

http://ja.wikipedia.org/wiki/フェルミ推定
http://en.wikipedia.org/wiki/Fermi_problem

実のところ,概算の重要性を私が認識したのは,大学3年生となって物理学科へ進学してからです.フェルミの概算力について学んだのもその頃です.それまではとにかく正確に計算することだけを追求していました.皆さんも独自のフェルミの問題を考えてみられたらいかがでしょう.