2017年06月25日

第98回:「STAP細胞をめぐる混乱に想う」by 宇野

1.STAP細胞の真偽

小保方さんのSTAP細胞について、4月1日の時点で、理研の調査報告書によると

1) 小保方さんのSTAP細胞について、4月1日の時点で、理研の調査報告書によると小保方さんに2つの点について研究不正行為があった。
2) 若山、笹井両氏については 研究不正行為はなかったが、データの正当性と正確性等について自ら確認することなく論文投稿に至っており、その責任は重大である。

と報告している。

http://www3.riken.jp/stap/j/f1document1.pdf
http://www3.riken.jp/stap/j/i2document2.pdf

この件については周辺の仲間とずいぶんと議論したが、私自身この分野の論文のきちっとした評価の出来るわけではないこと、状況が流動的である時点で、個人的な意見は控えてきた。しかしながら、周辺から色々と聞かれるし、多くの女性研究者に影響することでもあるので(何よりも私自身に、フラストレーションがたまっているので)これまでに思ったことを「あいんしゅたいん」のブログで紹介しようと思う。

現時点で、STAP細胞の存在自体がすべて捏造だったとは思いたくない。発生学の一部分の発見を万能であるかのように論文にしてしまったのか、研究という物に対する未熟さ故の問題なのかどうかは、私には現時点では判断できない。発表後各方面から指摘された問題点について、理研の見解はまあ妥当かと思っている。ただ、小保方さんが本来そこにおさまるべき別の写真をすでに提出しているとのことであり、不服申し立てをするとの報道もあり事態はまだまだ流動的である。私は現段階では今回のような騒ぎにならなければ写真もそのままにされていたと思われるし、理研の指摘通り、博士論文で使った写真との取り違えというのは許されない事であり、STAP細胞の存在自体に疑いの目を向けられても仕方がないと思っている。彼女が、STAP細胞が本当に出来たと信じているならば、研究者として再度STAP細胞にとりくみ仲間の研究者でも出来るように技術を教えるとともに、その限界と可能性を自らの手で明らかにしてほしいと考えている。

2.コピペと論文

STAP細胞が話題になって以降、論文の文章のコピペや写真にたいする指摘が次々となされている。だがmaterials and methodsのコピペに関しては、引用をきちっとしていないと言う問題点は当然非難されるとしても、この部分はかなりパターン化した部分もあるので、誰が書いても大きく変わらない可能性もある。特に初心者が英文を書いて行く過程でのコピペを非難したら、生き残る論文はどの程度になるであろうかとも思わないでもない。ただ、通常は参考とした論文を元に、新しい部分を入れて文章化し、指導者や共著者とのやりとりの中で、元はコピペであった文章も、洗練されていくのが常である。そういった意味で、博士論文も含め、彼女の周辺の関係者の指導に問題はなかったのだろうか。バカンティ教授は早大の博士論文見ていないとの報道もあり、早大の博士論文審査体制そのものが気になるところである。私自身、何人かの博士論文の審査に関わったが、真面目に審査するとかなりのエネルギーを必要とするものである。2011年の博士取得ということで、地震の混乱の中で、中途半端な論文が提出されてしまったのだろうか。いずれにしても、小保方さんの早大の博士論文の不備についても多々指摘されている点をつなぎ合わせとると、彼女の博士論文というものに対する認識がそもそも間違っていたようにも思わないではない。こちらの不備については、博士論文の書き方に対する指導の問題も感じないでもない。院生が論文を書くとき、参考となる論文を元に、自分の文章を書いていくことは事実だろう。コピペも推敲して洗練された物にするなら許されるが、そのままの切り貼りは許されないとの認識のないところで育ったとすれば、学位そのものの価値を疑ってしまう。通常は本人のその後の推敲と、先にも述べたように共同研究者や指導者、英文校閲者の手を経て、元の文章とはかなり違った、洗練されたものに進化するのが常である。現在ではその過程は省略されてしまったのであろうか。

最近の研究のなかで、安易なコピペ、画像操作が行われていることも、知らないわけではない。30年前はとっておきの写真の染色のしみを目立たなくするために、現像の技術でなんとかカバーしようとした。今はいとも簡単に、それができてしまう。時には簡単に合成写真までできてしまう。また、すでに本来の別の写真を提出しているとのことであるが、博士論文に使用した由来の異なる写真を掲載する感覚は、うっかりミスでは許されないものである。どこまで意図的であり、どこまで論文という物を甘く考えていたのであろうか、理研の結論を読んで後も疑問が残る。特に細胞の写真、蛍光顕微鏡の写真などは類似のものが多く、きちっと整理されていないとあとで訳がわからなくなる。それ故、ノートやデータの記録と整理がどこまでされているかが、問われる。

3.イルメンゼー事件

博士コースの院生の時、多分化能をもつ細胞(teratocarcinoma)の分化について研究していた私自身には、iPS細胞を見たとき、やっぱり生物というのはすごいなと思ったしだいである。STAP細胞についても、これもありなん、と思った。

その後の混乱をみて、昔の、イルメンゼー事件というのを思い出した。

1. Totipotency and normal differentiation of single teratocarcinoma cells cloned by injection into blastocysts. Illmensee K, Mintz B. Proc Natl Acad Sci U S A. 1976 Feb;73(2):549-53.
2. Nuclear transplantation in Mus musculus: developmental potential of nuclei from preimplantation embryos. Illmensee K, Hoppe PC. Cell. 1981 Jan;23(1):9-18.

これらの実験については、世界の研究室で追試ができなくて、イルメンゼーは研究の世界から消えていった。前者については彼の使ったteratocarcinomaが初期のもので核型も正常だからだったから出来たと考えられているが、後者には多くの人が疑義をもった。iPS細胞ができる現在の知識からすれば、この仕事は、できたことにはまちがいがないようにも思っているのだが。この時に言われたのは、そういえばイルメンゼーはいつも一人で実験していた、ということである。実験のノートがしっかりしている、実験の様子はいつも周囲が見ていて確認しているということは、とても重要である。

身近にいくつかの実験で、手慣れたヒトが行った同じ実験を院生が追試しようとしてもできなかったことを何度か見てきた。生き物を扱う実験には、時として、扱うヒトのスキルが大きく影響することもある。昔、岡田節人先生(京大・生物物理)が「男は3度失敗するとあきらめるが、女は5度でも6度でも挑戦して、しまいには不可能と思われていたことも実現してしまう。」と言っていたことを思い出した。ニワトリとウヅラのキメラを作ったル・ドワランやキメラマウスを作ったミンツが活躍していた35年前のことである。

STAP細胞騒ぎでのマスコミの持ち上げとその後の混乱には、多少辟易しないでもない。個人的には、前が割れて白衣はスカートが汚れるので(特にマウスを扱うときは、マウスの尿でもついてしまえば、帰ってお風呂に入り衣服を着替えるまでにおいはとれない!)、実験着として後ろで止める割烹着様の予防衣を愛用してきた。割烹着で実験に少し親しみを持ったが、実験室の様子も含めちょっと過剰な演出と思い、少し違和感と危険性を感じていた。理研にこの時点で、個人の業績発表以上の政治的理由があったのではないかと思わないでない。

4.博士論文と業績主義

ある大学の研究者と共同研究した時(約10年前)のことである。私が育ったところ(京都大学理学部動物学教室)では、院生がデータを整理し、論文らしき物を書いてきて、論文作成が始まると言ったら、その方は、そんなことをしていたら、世界の研究から遅れてしまう。自分の研究室では論文は自分がすべて書いている。院生は、実験をし、データを整理し、論文について一緒に議論するだけであると。実際にはこれが現実に近く、自分で論文のかけない博士が増えていることも事実である。

いくつかの論文の捏造事件、あるいは実質、二重投稿といった話があふれている。より細分化した研究の有り様は、自分の専門から少し離れると評価もできないということになる。その際に参考とするのは、どのレベルの雑誌に掲載されたかということで、impact factorが論文の評価となる。人事もからんだ業績主義が背景にあることは間違いない。そしてそれは、研究費獲得とも大きく関係している。業績が最後はimpact factorという魔物で評価される現実、それは研究者個人の評価にもつながる。コピペや画像処理は当たり前の風潮が研究室にあれば、そこで育った院生やポスドクの研究スタイルに影響も及ぼすであろう。博士号を取った10人に一人が自立した研究者として育ってくれればそれでよいという人もいる。あとは、医師になったり、企業に就職するか、でなければ研究補助や使い捨て研究者で良いというわけである。それで本当によいのだろうか。

このような風潮がノバルティス社ディオバンの臨床研究不正事件や、そのほか色々な論文のデータ使い回し事件を起こしている。実験した院生の知らないところで論文が出来、スタッフが科研費を取っていたなどという話はあちこちで聞く。女性研究者からも、上司に仕事をとられ、研究室を追い出されたという話もいくつも聞いている。今回、小保方さんを前面にだした理研を私はむしろ評価はしていた。小保方さんには、今回指摘された問題点を真摯に受け止め、あいまいだった点を、時間をかけてもクリアにしてほしいと願う次第である。場合によってはSTAP細胞の限界も見えてくるかもしれない、でもそれはそれで良いのではと思う。

自分の30歳前後の頃を思うと、生意気ではあっても、本当の意味で主張をもった論文がかけたかというと、出来てなかったし、今思えば実験レポートに毛の生えたものだったかもしれない。それでも最初の論文はとても大事だからと、急逝した指導教官に代わって、岡田節人先生が見てくださった。免疫に移ってからも、村松繁先生(京大動物学免疫)が論文は交響曲のようなものだ、と言いながら、あとかたもなくなるぐらい直しておられた。今の院生にはそんな余裕はないのだろうか。

私にはポスドク時代、免疫に移ってしばらく後、去年の学会発表は細胞にマイコプラズマという微生物が感染していた故の結果であって間違っていました、と発表した苦い経験がある。一応自ら、ここまでは事実、ここからはアーチファクトと一年後の学会で発表した。そのために、先に書いていた論文を没にして、1年かけてデータを出し直し、新たな論文を書いた経験がある。サイトカイン黎明期のことである。

小保方氏の売り込みも、その後の彼女や理研への非難も、すべては研究費と絡まっているのだろう。個人の能力とは離れたところで、皆研究をつづけているのだろうかと思わないでもない。今後もっと、研究者一人一人の資質も問われるだろう。

5.科学の信頼の回復のために

今回の騒ぎが、研究者そのものへの不信感、女性研究者一般へのマイナス評価とならないことを願っている。圧倒的な研究者は日々、寝る間を惜しんで研究を続けているし、十分でない研究費で体力勝負をしている人が多い事を私は知っている。一方で、Nature, Scienceといった一流誌に論文が掲載されたか否かが、研究者の評価を決めている。時にはそこに含まれる写真や図は数十枚ということもあり、その掲載には一人の力ではいかんともしがたく、チームとして多面的解析が必要であることも事実である。そして資金獲得には、一流誌にどれだけの論文が掲載されたかが、評価の一番の決めてとなる。それ故、多くの研究者は一流誌を目指す。今回の一番の問題点は、このような一流誌至上主義の結果なのだろうか。もし共著者に、Natureの気に入られるような論文にする為のデータの改ざんの働きかけがあったとしたら、併せてその罪は問われるべきであろう。

福島原発事故以降、私は、低線量放射線の生体影響について深く関わることとなった。放射線のがんリスクについて、生体の柔軟性について語り、この程度ならライフスタイルの改善で克服できる範囲と言ったことに始まっている。その中で、ずいぶんと色々な論文も読んだ。実際放射線影響について過大に評価している論文は、単発の物が多い。また単なる症例報告レベルのものもあった。この経験を通じて、やはり追試ができる、同じような報告が別のグループからも出されるということの重要性を感じている。3.11以降の研究者間での意見の混乱が、住民に混乱を招き、科学者への不信感が増大したと言われている。科学者の中には、何でも過大気味にリスクを言う方の方が良心的な人と評価され混乱を招いたと感じている。今、科学者の情報発信のあり方、が問われている。科学者たる者、きちっと事実と向き合い、データを元に、過大でも過小でもない結果の発信の必要性が問われている。