2017年09月23日

拝啓 武田先生「原発 緊急情報 子供の目線で」はほんとうですか?(ブログ その59)

武田邦彦先生は、毎日ブログを書いて熱心に情報を発信しておられる。その読者の1人から、「『現在の放射線程度では健康に影響しない』と気軽にいうけど、今、近くの人は毎日不安に駆られている。武田先生のブログ(以下、「武田ブログ」)を読むと本当だと思う。あれが、もし違っているのなら、みんなを安心させてほしい」と言われた。

いったい何が正しいのか、これほど極端に意見が入り乱れているのも珍しい。「御用学者」呼ばわりされている放射線医学者もけっこういる。
それは、1つには、正しい情報を発信できない(しないとはあえて言わない)当局側のレベルの低さが何といっても問題なのだが、逆に、極端に危険を強調する方にもやっぱり問題がある。その典型例として、武田ブログを例にとって検証してみよう。

武田先生には、環境問題でリサイクルの矛盾を明確に押さえた理論ではいろいろと学ばせてもらったが、ここでもかなりの誇張があり、「拝啓武田先生」を書いた事がある(※)。大げさにいう癖があるように思う。
武田先生なら、いわれのない悪口や嘘でなければ、批判は受け止めていただけるかもしれないので、例として取り上げるには気が楽だ。特に、今回の放射線障害についてのブログは、その影響がかなり大きいので、あえて私の分析を紹介したいと思う。もちろん、武田ブログを正しく読み取っておられる方にはいまさらいうこともないのだが。

※ 拝啓武田先生 その1 『環境問題はなぜウソがまかり通るか』を斬る(愛知大学一般教育論集 2008年4月)
  拝啓武田先生 その2 空はなぜきれいになったか。排気ガス規制からの教訓(愛知大学一般教育論集 2008年9月)

その1では、ペットボトルをリサイクルすることで資源を7倍も使っているという計算はおかしいことを指摘した。その2では、日本の空は、何も苦労しなくても勝手にきれいになったようにかかれているが、市民と科学者が大変な努力をしたことに言及していないことを指摘した。

 

そこで、1例として「原発 緊急情報(52)子供の目線で」(4月8日)を調べてみることにした。

武田ブログの記述:

「空間線量率測定の公表によると、高いところでは1時間当たり20マイクロ(シーベルト、省略)を超えるところもあり、10マイクロ程度の学校が相当多い」

とある。4月8日の時点で、どの区域のことかも触れていないので、まずはこの値がどこに出ているのか、調べようと思ったが、このブログでは参考文献がない。今、どこにデータが掲載されているか探すだけでも大変なのだ。せめてどのホームページ(URL)からとってきたのか書いてほしい。武田ブログで教えてくれないので、仕方なしに「どこの情報か」も確かめてみると、かなり狭いところに限って上のような数値が出ていることがわかった。わざわざこれを使って人を驚かすのは、武田先生の悪い癖だと思う。

「放射線測定データ」を検索し、4月8日にさかのぼって調べてみると、確かに福島県飯館村あたり(原発の北西方向)は濃いようだ。

 

blog59-4

 

上記参考データのPDF版はこちら

どうしてこの特殊な地域だけこれだけ線量が高いのか、これを調べているうちに謎が解けてきた、
武田ブログにあるように、「半径」で範囲を決めるやり方がいかに馬鹿げているかよくわかった。風の向き、降雨量によって局地的に線量が極端に高いところがあるのだ。放射線量を各地で測定し、情報を正確に知らせないからこういうことになる。これが最大の問題であることは確かである。
しかるに、文科省を含めてデータの説明が全くないのが多い。前日と比べてどうなのか、どうしてある時数値が上がったのか、事故が再発したからなのかか、風向きのせいか、それが何も書いてない。小学校の子供ではあるまいし、分析というものがないのだ。

仕方なく平常値と比べようと思って、例えば2009年の数値を見つけ出したが、これはまた単位が「ナノグレイ」になっている。一般の人が見ても比べられない(注:グレイはガンマ線で測った場合はシーベルトと同じ値)、これを換算すると、事故以前の平常値としては、東京の値は平均して1時間当たり0.03 μシーベルト(Sv)となる。この値は地域差があり、鳥取県などは0.06μSv、京都府だと0.04μSvである。西高東低なのだ。

そういう中で、事故後の福島県も、ほとんどの数値は、0.1‐0.4μSvあたりには落ち着いてきている。
ただ、その中で、1μSvを超す地域がいくつかある。中でも津島小学校(浪江町)が突出していて、16μSvと大きな値になっている。どうしてこのように線量の高いルートが存在するのか、それを気にしてもよさそうに思うが、何もコメントはない。
情報を発信する側の姿勢の重要性を身に染みて感じた。そして、一方、この局所的に線量が大きな地域が、どこにどうして存在するのかという疑問を解くべく、骨身惜しまず測定分析を行ったボランティアの人々の努力を知ることとなったが、それは別途報告することとする。

とにかく、以上のような状況のなかで、逆に武田ブログで、特殊なところを取り上げて、その計算を紹介するのも危機をあおりたてることにならないだろうか。

まとめると、武田ブログの特徴1は、「突出した高い線量を持つ地域(飯館村・浪江町のルートを含む特殊な地点)を典型例にして計算を進めている」ことである。

武田先生のブログを読んで心配になっている読者のために、計算を示しながら事情を説明する。面倒だが、自分で確かめて理解してほしい。

 

武田ブログの内容:

1)「大人は1.5メートル付近の空気を吸うが、お子さんは50センチから1メートル程度.それに走り回ったり砂場で遊んだりしますので、地面にかなり近いところ、しかもホコリが舞っているような環境です。地面から30センチまでがホコリが舞う高さなので、舞い上がる分をいれて

 → 線量が1.5倍程度になるとする。→1.5倍→30マイクロ

2)事故が起こる前まで文科省は「被曝は外部と内部を合計すること」と指導していたが、事故が起こってからは「外部だけ」を発表しているのはおかしい

 → 加算 内部からの被ばくを加算
 
空間からの被曝=外部30マイクロ+内部30マイクロ=60マイクロ

3)食事や水、洋服、持ち物から児童生徒が被曝する量(お子さんがおかずを一日300グラム食べると仮定)

 → 加算 食材と水などから約30マイクロの被曝

このような3つの効果で、6倍となる

 外部(30)+内部(30)+食材(30)+水など(30)=120

4)次に、これが1か月続くとする

 → 最初の1ヶ月:120×30日*24時間=86400μSv

以上が武田ブログの計算である。1)2)3)の過程で、ほぼ6倍になっている。そして武田ブログでは、1カ月間続くとして計算しているが、本当にこの値がずっと続いたことを確かめているのだろうか?
文科省の表を見ると「積算数値」というのがあるが、これがおそらく測定し始めてからの総線量のように思われる。およそ1か月たっているが、その数値は291時間で4663μSvである。学校にいない時は話が違うし、夜はほこりも少ないだろうが、フルにこの環境にいたとして30日ではそのまま延長して9200μSv、その6倍とすると55200μSv、となって1.56倍大きい。実測値と比べても大きすぎる計算になる。
結局、ほぼ10倍に膨れ上がっているのである。

このように、大きめに見積もって計算するのは、危険をできるだけ考慮して計算する側であり、おそらく小さめに見積もった計算をするのが行政側なのかもしれない。しかし、どちらも実測値のデータを見て物を言うべきという観点からするとフェアでない。
こういうことが出回るから、みんな疑心暗鬼になるのではないか。

よく注意してみれば、これが最も線量の高い地域であり、一般的な福島県の線量をインプットしていることに気がつくのだが、武田ブログは、児童を守るために必死になっている多くの先生方を一層不安にする。

もちろん、これを見る方も、「これはどう確かめられるか」と、常に実測値と比べて考えていくだけの科学的態度を保っておくべきではある。

結局、大きめの見積もりや小さめの見積もりをするのは、しっかりした原則がないからである。こういう時期、別途述べるつもりだが、低線量の放射線障害の明確なデータがない時だからこそ、将来のためにも正確なデータをとり、科学的な分析をプロの科学者がきちんと行うことこそ大切である。
それは同時に、そのデータを公開し、市民に分かりやすい形で情報を提供し、本当に危険なほどの線量になった時には、その地点に行くのを避けるよう指導すべきなのだ。
この際「放射線情報と予報」をしっかりと行えばどうか。

武田ブログは、これだけで終わるのではない。
この出てきた結果と線量基準に対する態度にも解せないものがある。ダイオキシンの時は、政府のダイオキシン対策に対して、明確に「間違いだ」として、「当時は、マスコミがダイオキシンは猛毒だと報道していたのだからと、それをそのまま受け止めていて、自分で調べることをしていなかったのだ」(「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」P68 )という反省文さえみられる。
今回は、その反省の上に、科学者として一度点検してみてほしい。それが科学者としての、真摯な態度ではないか。
私はこの間、この「低線量の放射線障害」について極端な論があることで、かなり点検を繰り返している(それについては、別途報告する)。「クリティカル」な意見を常々述べておられる武田先生のような方は、ぜひとも責任を持って両論を点検し、自ら判断を下されることを希望してやまない。