2017年03月30日

ある若手科学者の軌跡・・・中西健一さんのこと(ブログ その37)

金木犀がほのかに漂うのを感じてもう1カ月近くたった。1年前、金木犀の香る頃、再び始まった中西さんとのメールでのやり取りを思い出す。その彼は、今はもういない。このブログは、その短い人生の1つの軌跡をたどってみることである。

幼いころ(これは、他界された後、初盆でご両親や妹さんから聞いたお話だ)

中西さんの幼いころの思い出を、妹さんは「いつも部屋の布団の周りにいっぱい本が置いてあった」という。本好きで好奇心が旺盛だった。大阪の周辺都市、堺に住んでいたが、塾に行く友達もたくさんいたようだが、「僕は自分で勉強する」といって塾にも通わず、勝手に育ったということだ。
私の周辺のポスドクには、こういう人が沢山いる。そして親に手もかけず育って、モチベーションも高かったという様子は、国立教育政策研究所「ポストドクター問題」(日本物理学会・国立教育政策研究所編 世界思想社)に調査結果が出ている。中西さんもそういう例にたがわない。

京都大学理学部の素粒子研究室へ

中西健一さんは、京都大学理学素粒子研究室の大学院生として、1985年頃に入ってこられた。確か演劇をやっていたかなあ。それで、私は、ピーターパンのような印象を受け「ケンちゃん」と呼んでいたように思う。ともかく、元気で活発な院生だった。私が愛知大学に移ったのは1987年だから、2年ぐらいは同じ研究室にいた。
といっても愛知大学に移っても、専門の研究では、よく研究室に顔を出していたので、その後入ってきた院生とも顔なじみだが。中西さんは、当時の田中教授らともっぱらクォークの「世代」の起源を探究していた。素粒子論若手研究者としては、巾の広い興味の持ち主だった。いろいろな問題を、よく議論したものだ。共同研究するようになったのは彼が大学院を出てポスドクの時代になってからだ。

ポスドクが新しい分野に挑戦・・・

1994年に博士号をとった頃、1993年は久しぶりに国内留学で愛知大学の授業から解放され、京都大学素粒子研究室に1年滞在し、そのあと4・5月はカナダ、アメリカへ研究のため滞在した。その頃は、素粒子論の研究だけではなく、「交通流」の分野に参入した時期でもある。だから、この多趣味で好奇心にあふれた中西さんとは、交通流の議論もよくしたものだ。
そんな議論の中から次の研究が生まれる。素粒子論以外の人脈の広い中西さんが加わったことで、さらに視野は広がった。そして、物理学会から飛び出して、故山口昌哉先生のお勧めもあって、応用数理学会で発表した。中西さんが発表することになったが、東京の学会に一緒に行ったことを覚えている。彼は、大きな荷物を持ってきていたので、「それなに?」といったら、「スーツが入っている」という。物理学会で発表するときは、普段着のTシャツの彼も、他の学会では様子がわからないので、無礼にならぬよう、ネクタイも持ってきていた(ネクタイ屋の娘だった私は、こういうきちんとしたところがあるから助かっているのだと思ったものだ。)
学会での発表はけっこう反応もあり、その後、統計数理研究所、東大の薩摩研などたくさんのセミナーにお声がかかり、話も広がった時であった。」

新しいテーマでポストに就く

1996年、初めて開かれた交通流シンポジウムに出席した中西さんは、その懇親会の席で「まだポストが見つからない」と自己紹介した。
そこに出席しておられた長谷隆教授が「今流動的なポストが1つあるので、任期付きだが良かったら来ませんか」と声をかけてくださり、次の4月に赴任できた。静岡大学では、粉粒体流の研究で成果を上げている京大の早川尚男さん(現基礎物理学教授)と議論して、さらに突っ込んだ分析を進めた。この「相分離」という現象は、社会現象や生物現象などさまざまな分野でも応用できる面白い分析方法である。そして、確かに、中西さんは、1997年には、交通流のシミュレーションシンポジウムで、「粉体流における緩和ダイナミクスとキンク間相互作用 」という話を、「静岡大・工」の所属で話している。また、長谷氏やドイツからの留学研究員エメリッシュ らと、1年足らずの間にすぐ論文を書いた。とっつきがよくすぐに計算できる腕力があった。そして、単なる興味にとどまらず、そこから独特の創意性を発揮して仕事をしていける研究者だった。
こうして、チャンスがあったということもあるが、いとも簡単に、そして、器用に新しい分野に入り込み、いい仕事をしたのである。こうして、当時としては長かったポスドク生活に終止符を打ったつもりだった。

職を辞して再びポスドク生活

しかし、3年は続くと予想していた職を1年で辞している。最初の予定では2年間、うまくいけば3年の任期ということだったが、定員削減の影響もあったのだろう、工学部の内部事情があり、早くポストを返す必要がでてきて、長谷教授は苦慮されていた。1年もたたないのに、すでに共同の仕事も軌道に乗り、共著論文も2編仕上げていたのだが、1998年1月頃から急にこの話が浮上した。
本来公務員はそんなに簡単にやめさせるわけにはいかない筈だ。私たちは、なんとかならないかと胸を痛めていたが、中西さんは、「たった1年でも自分を評価し雇ってくださった方に迷惑が掛かるのでは申し訳ない」ということでいさぎよく辞表をだした。そして、また、名古屋大学のポスドクとしての席で、仕事を続けたのである。そして、愛知大学の非常勤講師を引き受けて、新しい生活を名古屋で始めた。

科研費交付を泣く泣く断る

やめてすぐに、5月ごろだったろう、静岡大学から出していた文部省科学研究費が当たったという連絡が静岡大学の事務を通してあった。数理情報分野で彼の仕事が評価されたということは、喜ばしいことなのだが、現在ポストがないために、泣く泣く辞退せざるを得なかった。こういう優秀な人材が、こう言う形でせっかくの研究費を確保できず、私もとても無念だった。
人に迷惑をかけたくないという気持ちもわからないでもないが、彼がもし辞表を出さなかったら、と無念に思わないでもないが、それがまた、彼の人柄のよさでもあるのかなあ、と哀しい思いをした。

愛知大学と科学教育

愛知大学で自然科学概論の講義をお願いした。若い人は、自然科学全般についての講義には抵抗があるものだが、中西さんはそれができる人で、話がわかりやすく、科学の本質をついた論を展開するので、学生達の人気を集めた。若いのに、新しく始めたことでも、すぐ学んで乗り切っていくのは、もともと理科教育に興味があったのだとつくづく思う。応用力があり、適切に対応できる器用さがあり、大学院の情報教育にもすぐに対応できるし、その貢献は大であった。単なるお客さんの非常勤ではなかった。

共同授業の経験

私の授業の人数が1000人近くになった年、これは無理だということで、2つにわけることになった。そして、中西さんと私が、授業内容を相談して担当した。
大学というところでは、担当者が自分のいいと思う授業を行うのが普通で、「大学の自治」という精神の表れでもあり、大学らしい個性的な授業となる。そういう意味では、同じ授業を2人が内容を打ち合わせしながら、授業を進めるなどというのは例がないだろう。
この初めての授業を担当して、実は、私は、とても楽しかったし、毎週発見があった。議論していると、いろいろなことについて、内容が生き生きとしてきて、理解が深まった。それは相手が中西さんだったからに違いない。議論して楽しく、発展があり、刺激を受けるのは、双方の創意にみちた好奇心がぶっつかりあうからでもある。これは、あとあとまで、ずっと、私たちの財産になった。それだけでなく、新しい研究のテーマにさえなった。
この頃書いた論考(愛知大学一般教育論集)には、沢山の共著がある。「生殖技術の最近の発展と優生思想」(1999)「科学者の責任・・臨界事故を振りかえって」(2000)、「環境問題とエントロピー」(2000)「交通流と物理」(2000)「エントロピー最高とゴミ問題」(2002)などなど、その上総合科目の担当にも加わり、「生命のフィロソフィ」(世界思想社 2000年11月)では編者の1人になっている。

三重大学との出会い

私の研究室は、名古屋市内(車道)にあるキャンパスで、学生はほぼ毎日たくさん集まって遅くまで議論したり作業したりと賑やかだった。夜の11時ごろ、物理学会の仕事で電話があった時に、電話の相手が、「坂東さんの部屋には、まだ学生がいるのですか?」とびっくりされたこともある。それに、訪問者も多かった。多種多様な分野の人がやってくるので、議論が絶えなかった。
その1人が、三重大学の亀岡教授である。彼は、「生物資源、農学を科学にするには、物理学が必要だ」という考えの持ち主で、カオス、複雑系の話で議論をよくした仲間である。そこに中西さんも参加していたが、中西さんの身分を知って、「もったいないなあ」と言ってくださり、「とりあえず、三重大学にアルバイト研究員としてきてみては」と言ってくださった。そして、週に2回から始まって、三重大学生物資源学部の研究室に通うようになった。私も時々訪問したものだ。植物の成長を調べる為に赤外線などを使って得意な腕をふるい、新しい現象を見つけるのは、彼にとって楽しい仕事だったのではないかと思う。その中で、彼はすぐに頭角を現した。
そして、彼は、その後、三重大学の助手として採用され、きのこの研究を中心に。幅広い分野に進出していた。私は、彼やその他の優れたポスドクの様子を知らせるのに、「ポスドク物語」という小説を書いてみたいと思っていたが、その彼の未来の姿は、生命科学で素晴らしい発見をして、有名になった「中西博士」の姿も思い浮かべていたものだ。
間もなく、彼は准教授に昇格した。それまでに、ポスドクの期間がおよそ10年続いたであろうか。ちょうと、ポスドク問題が浮上し始めた頃だったのだ。

2009年10月26日

2009年10月26日、彼は、46歳の若さで、あの世に旅立った。「三重大生物資源学部中西健一さんとは、京大素粒子論研究室出身で交通流の研究もやっておられた中西さん(ケンちゃん)ですよね?私とそんなに年が離れていない人で、京大では私ともよくおしゃべりしていました。亡くなられたとは、驚きですし、たいへん悲しいことです。」、これは、仲間のTさんからきたメールである。

私と中西さんの交流は三重大学以後も続いていた。奥様との出会いである新潟大学との共同研究についても、まだ伝えていないが、とりあえず、26日を前にして、あるポスドクの軌跡をたどってみた。彼の科学教育に対する熱意は、SNNの第51回ニュースでその一部が紹介してある。この機会に訪問して頂ければ幸いである。

2010年10月24日