2017年03月24日

原康夫さんと小林益川理論(ブログ その8)

ブログのアップが遅れています。というのは、JSTに「大人のための科学教材全国ネットワーク」というプロジェクトを申請するために、たくさんの皆さんにネットワークを作ることを呼びかけ、申請書作りに追われていたからです。これについては、そのうちご紹介しますが、是非とも皆さんのご協力をお願いします。

今日は、原康夫さんのお話です。

さる3月6日、物理学会キャリア支援センター主催、物理学会京都支部などとともに、当NPOも協賛して、「ポストドクターのための情報教育研修会」を開催しました。(詳しくは、こちらをご覧んください。)

この講習会に、なんと、筑波大学を定年退官された原康夫先生がお見えになったのです。そして、「何か役に立ちたいと思ってね」と言われました。久しぶりにお会いした原さんと、お話できたのが、何よりうれしかったです。そのとき分かった事をお伝えします。

ノーベル賞を獲得した小林益川理論は、伝統的な名古屋の坂田研究室で培われた物質観に基づいています。実に見事なまでに、日本は、素粒子の実在を基礎にして、まだ見たこともない素粒子を予言することにかけては、世界の先端を走ってきました。湯川理論でパイ中間子を予言したときは、「そんな見たこともない粒子を予言するなんて」といった風潮が世界中にありました。そして、それが本当に見つかって大騒ぎとなりました。それ以来、チャームクォーク・ボトムクォーク、トップクォーク、そしてニュートリノなどに関して、沢山の仕事が日本から出ました。今回のノーベル賞でも実証されましたが、これで、名古屋大学の研究室が、脚光を浴び有名になりました。確かに、この点に関しては、名古屋グループがリーダーシップをとっており、さきがけの仕事は、名古屋に何らかの形で関係している人たちによってなされています。

ところが、私には、日本の仕事の中で、2人だけ名古屋につながらない人がいるな、と思っていました。その1人は柳田勉さんで、今は東京大学におられますが、右巻きニュートリノを導入した人です。これは、ニュートリノの軽い質量を説明する自然な模型「シーソー機構」で導入されたもので、もう一人は、原康夫さんで、名古屋大学の助手から京都大学の基礎物理学研究所長をされた故牧二郎さんと同じころ、クォークは4つあるという、いわゆる4元模型を提唱した方です。我々はよく、この2人のお名前をとって「はらまき模型」などといっていたのです。牧さんは名古屋の洗礼を受けているのだから、まあわかりますが、どうして東京教育大におられた原さんがこういうことを考えられたのか、それが私には謎でした。

といっても、素粒子論の研究者は、みんな交流がよくて、お互いに議論しあう中ですから、別に同じところにいなくても、影響はお互いに受けるのが常です。しかし、当時の、潮流は、日本の中でも、東京のような海外の情報がよく入り、流行をよくわきまえているところでは、名古屋のようなアプローチには批判的なところもありました。まあ、混乱している時代には、どこで育つかによって、アプローチの仕方が違ってくることは、よくあることです。

で、まず、柳田さんの方ですが、直接聞いて見ました。そしたら、名古屋大学におられた故小川修三先生が広島に移られたのですが、当時広島におられた柳田さんは、その影響を受けたということでした。原・牧のモデルも出ていたし、チャーム粒子はまだ見つかってはいないけど、名古屋ではみんなあると信じていたと思われます。このようなところから来られた小川先生の影響を受けたのだ、ということです。「僕は、チャームはあるって信じていたよ」というのです。これで、柳田さんのルーツが見えてきたのです。

ところで、小林益川両氏がノーベル賞をもらわれて、いろいろと解説する機会が増えてきたのですが、そのとき、原さんが、はるか離れた東京で、しかも当時は、ヨーロッパのCERN(ヨーロッパにある原子核素粒子共同利用の実験設備を持つ研究所)におられたのですが、どうして、そういう離れた伝統のないところから、こういう仕事が出たのだろう。この疑問をぶっつけたところ、原さんは「牧さんの影響」だそうで、やはり名古屋とつながっていたことが分りました。そしたら、あっさりと、「僕は、牧さんの影響を受けたんだよ」といわれたのです。そういえば、牧さんは東京教育大学、朝永先生のところの大学院生で、そのあと名古屋にいかれたのでした。その個人的なつながりが、けっこう、何かの折りには重要になるのですね。もっとも、たとえ、そばにいても、受容体がないと影響はうけないんですけどね。こんなわけで、原さんが、けっこう、名古屋に傾倒しておられたことを知りました。こうして、小林益川理論の下敷きになった4元理論(つまりクォークは4つある模型)を提唱されたのです。

その後、原さんは、定年退官の冊子を送ってくださいました。そこに退官記念講演の記録と共に、坂田先生のある研究会での講演記録が再録されていました。原さんの最終講義(1977年つくば大学)には坂田さんのかいた「長編小説論 あわせ聴けば明るく、偏り信ずれば暗し」が、わざわざ掲載されています。

私には、まだ、1つ疑問が残っています。

日本は素粒子の予言と言う意味では確かにずっと先頭を走り続けていたのですが、最終的に決定的に負けたのが、クォーク模型に行き着かなかったことです。

小林益川の論文は、クォーク模型が確立した後の話であるにもかかわらず、彼らの論文では、6クォーク模型とはかいておらず、6元模型とか書いてありますからね。なぜ、クォークと書かなかったのかは、定かではありませんが・・。坂田先生が、このあたりの事情をどう考えていたか、これ、なかなか面白いです。この中で、原(・ゲルマン)の仕事に触れられています。とにかく原さんの謎がとけたのも、この講習会のお陰でした。 

ところで、原さんは教育にとても熱心に取り組んでこられていて、これから協力していただきたいと思っておりましたら、早速学会での若手の「科学教育若手研究会」のインフォーマルミーティングにも出てくださり、その報告として、次のようなメールをいただきました。

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学会では3つの収穫がありました

1)若手による科学教育への自主的キャリア展開に感心し、支援する行動に参加するため、さきほど電子メールで正会員(1口)として、NPOに入会を申し込みました。
2)政池さんに偶然会って、彼の荒勝研での戦時研究の進展を知り、さらなる発展のための応援ができたことです。
3)物理学史での神話の誕生を知ったことです。 

この2)と3)は、科学の歴史から、わくわくする発見を見出すといったスリルがあります。

これは、別の機会に譲るとしましょう。

考えてみれば、実は、原さんには、2008年9月、キャリアパス多様化事業の経験交流の機会を、筑波大学の小林修一先生が作ってくださってのですが、このとき、岩崎筑波大学学長(この方は素粒子研究者です)のあいさつがあり、そして、なんと、原さんが出席されていたのです。そして、「ぼくの研究室では、キャリアパスのモデルは柴崎くんだ」とおっしゃったので、「あら、ちょうど学会誌に書いてもらったところですよ」というお話をしました。「物理学を生かす異業種・異分野進出の勧めと応用分野の体験記」を柴﨑一郎さん(旭化成株式会社 新事業本部顧問)に書いてもらったところだったのです。

その体験記の最後に、柴崎さんが書いてくださった文を引用して、本日は終わりにします。